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――お父さまのお仕事を日常的に見られて、遠慮しようというお気持ちがあったんですね。

笠原 昔から、まわりに気を使うタイプというか、けっこう大人だったと思いますよ。ひとりっ子で大人に囲まれて育っちゃったから。

――お母さまが亡くなられたのは。

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笠原 高校1年のとき。中学から高校くらいって、お袋のことうざいって感じる年頃でしょ。だから余計思ったよね、もうちょっと言うこと聞いておけばよかったなって。お袋ががんということを、親父が俺には教えてくれなくて、亡くなる直前までわからなかった。もっと早く言ってくれればよかったのにって、そのことでは親父を随分責めましたね。

撮影 榎本麻美/文藝春秋

「オヤジの姿を見て料理人はかっこいいとずっと思っていた」

――高校を卒業されてすぐ、「正月屋吉兆」に修業に出られています。

笠原 お袋が生きてたら、たぶん大学に行ってたと思う。「これからの時代、大学には行って」ってずっと言われてきたし。それが、お袋が亡くなってさみしい気持ちを紛らわせるために、友だちと遊んでばかりいて、成績もどんどん落ちて。

 だけど、高校3年で進路を決めるとき、大学に行って何かになりたいというのもなかったし、ただ小さい頃から親父の姿を見て、「料理人」という職業はかっこいいとずっと思ってた。自分でお店をやりたいという気持ちも、昔からありました。

 あと、たまたまテレビで「パティシエのW杯」というのを観て、飲食業界にも日本代表がいて、しかも世界大会があるんだって初めて知って。当時はいまみたいに「メジャーリーグで活躍する大谷(翔平)君」みたいな存在がいなくて、「世界を相手に戦う日本代表」という響きに痺れたんですよね。それで、パティシエになりたいと親父に話したら、「おう、いいじゃねえか」って。

撮影 榎本麻美/文藝春秋

――ご実家を継ぐようには言われなかった?

笠原 親父はお前がやりたい仕事をやれっていうタイプだったから、何の反対もなかった。でも、パティシエってどうやってなるかわからなかったし、日本料理だったらいいところを紹介できるかもという話の流れから、日本料理をやってみようかなと。どうせやるなら厳しいところへ行ってこいと言われて、僕もどうせならすごいところに行きたいと思ったから、もう親父には言われるがままね。

――はじめてご実家を出られて、9年間。

笠原 最初の4年間は寮に入らなきゃいけなくて、その後は実家から通いました。最後のほうだけど、修業時代に結婚もしちゃった。

そして予期せぬ形で迎えた28歳での独立

――まもなく独立など考えてらしたのでしょうか?