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90年前の日本社会は、オペラ歌手・藤原義江の不倫へのバッシングに沸いた

なぜ人々は上流社会のスキャンダルに熱中したのか #2

2019/10/24

「世も人もいまはおそれじ吾をおきて汝が妻はなし吾が夫はなし」

 日本脱出時にそう歌ったあきはイタリア・ナポリで義江と落ち合い、こう高らかに詠んだ。

「ベスビオの山は火を噴き汝が胸の火と比べよと真向ひて立つ」

 義江満29歳、あきは31歳。2人はナポリからローマ、ベニス、ミラノ、そしてパリ、ニースと旅を続けた。しかし、日本国内ではあきに対するバッシングが広がっていた。当時の婦人雑誌などは2人の不倫を指弾する特集や企画を競って取り上げた。

©iStock.com

世論の大勢は批判的だった

「婦人画報」は同年10月号で「われらのテナー藤原義江氏と前宮下医学博士夫人の恋愛批判」という特集を組んだ。中では、同じように不倫で世間を騒がせた華族出身の歌人・柳原燁子(白蓮)が「夫博士と一年間別居したり、親類兄姉の厳しい反対に向かって勇敢に戦ったり、こうした感情の闘争ほど、女性にとって耐えがたい苦痛はありますまい。私は秋子夫人に同情します。どうかあの方の将来が、この後は真に幸福であるようにと念じています」と弁護した。

 それに対して、「彼女はあまりに個人的だ。自己の幸福の追求のみに執心して、愛子二人の幸福や向上のために犠牲となることも辞さない母性愛の欠陥せる人、社会性の欠乏せる人ではあるまいか」という意見も。世論の大勢はこちらに傾いていた。帰国した義江の独唱会には「中止させろ」「藤原義江を追い出せ」といったビラが電柱などに張り出されるなど攻撃がやまなかった。

「自分は日本人だから当然」

 結婚披露の晩餐会は1930年1月に開かれ、伊庭孝、山田耕筰、堀内敬三ら音楽界の先輩らが祝福。作家・久米正雄が乾杯の音頭をとった。次第にバッシングは収まり始めた。

藤原義江とあき夫人 ©文藝春秋

 1931年10月、2人の間に男の子が生まれた。このころが最も幸福な時期だったようだ。

 同年に「満州事変」が起きると、義江は国威発揚の映画に出演。軍国歌謡も歌うようになる。「自分は日本人だから当然」と語っていたといわれる。最も知られているのは「どこまで続く泥濘(ぬかるみ)ぞ」で知られる1932年の「討匪行」。作詞は関東軍の宣撫工作の責任者だった八木沼丈夫で、作曲は義江自身だった。