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これ以上の恋はないのではないか

 評論家・大宅壮一も週刊誌で「常に新記録の女性だった」と表現した。確かに、彼女が書いたものや短歌を見ると、歌手の義江との恋にうつつを抜かしたり、単なる妻でいたりすることには収まりきらない知性と教養を感じる。職業女性になるべくしてなった人なのだろう。その情熱的な言動や自己表現にも日本人離れしたところがある。それが夫婦生活では必ずしも幸せにはなれなかった原因だったのか。

 編集者の山本夏彦氏は1991年、文藝春秋のコラムで「姦婦藤原あき」という文章を書いた。大正末年の新聞がそう表現したと指摘し、「いつから新聞が『姦婦』と書かなくなったかを確かめたい」と述べた。「たぶん非難ばかりだろうと察して新聞は姦婦と書いたのである。ところが相手はヴァレンチノに似た我らのテナーである。若者の人気はちっとも衰えない。あきは二児を捨てて義江を追うのである。世間の非難を一身に浴びてなお屈しないのである。これ以上の恋はないのではないかと、ことに若い男女が思うとすれば姦婦と書くのは憚(はばか)りがある」。メディア報道への皮肉も含めて、現象の本質を突いて的を射た論評だろう。

©文藝春秋

 義江もあきの死から9年後の1976年3月、急性肺炎で死去した。77歳だった。今度は「夫人あきさんとの間の熱烈なロマンスはあまりにも有名だが…」(朝日)、「故藤原(中上川)あきさんとの情熱のロマンスで、封建のカラに閉じこもる当時の上流社会に、センセーショナルな話題を投げかけた」(読売)などと報じられた。

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 最後まで帝国ホテルが定宿だった。長年の支援者が経済的に支えていたが、支援者が亡くなってからはホテル側の好意だったようだ。最後を看取ったのは昔、藤原歌劇団で関係があった元オペラ歌手の女性だった。

【参考文献】
▽藤原義江「我があき子抄」 毎日新聞社 1968年
▽田中純一郎「日本映画発達史」
▽読売新聞社婦人部編「男ごころ女ごころをどうしてつかんだか」 北辰堂 1957年
▽松本清張監修「明治百年100大事件」 三一新書 1968年
▽山本夏彦「愚図の大いそがし『姦婦藤原あき』」=文藝春秋1991年5月号