ほどほどに惚れていればよかった
さらに義江は、日本のオペラ振興の夢を実現しようと1934年、藤原歌劇団を結成。あきも翻訳をはじめ、広告集めや前売り券販売など、歌劇団の運営を手伝うようになる。しかし、その間も義江の女性遍歴はやまなかった。戦後、プリマドンナで夫と子どももいた砂原美智子との関係は歌劇団内外で有名になり、あきの耳にも入るようになった。2人の間の亀裂は徐々に拡大。1953年、歌劇団の公演が失敗してアメリカに取り残され、旅費もなく、単身、貨物船で新潟港に帰ってきたことで決定的となった。
あきは離婚後の週刊誌のインタビューでこう語っている。「浮気はいいのでございますよ。浮気は、私と結婚したときからずっとですから。それが、浮気でないから愛想をつかしたのです。つまり、本気なんです。私を追い出そうというものですから。追い出されたらしゃくですもの。だから大いに戦った。私の場合、自分を殺しちゃって藤原に打ち込みすぎていたから、余計どんでん返しされたのが悔しくて。もう少し、ほどほどに惚れていればよかったのですね」。
一方、義江に気に入られて一時、家に居候をしていた舞台美術家の妹尾河童氏によると、妹尾氏が「パパ(義江)は砂原さんのどこが(いいの)?」と聞くと、義江はこう答えたという。
「あいつは僕を甘えさせてくれるし、『バカ』とひっぱたけるんだ。彼女は『ゴメンナサイ』と言って泣くからかわいいんだ」
「駿馬痴漢を乗せて走る」
対してあきは、義江に「毎朝、新聞の死亡広告を見ること」を教えた。世話になった人がいれば、弔問や弔電が必要だからだという。オペラ公演のチケット販売なども三井財閥の力が働いた。知性も教養も、格段にあきの方が上だった。そうしたことの積み重ねから愛情が変化したのだろうか。
「男ごころ女ごころをどうしてつかんだか」という本では、義江との離婚を踏まえて、「『私には男ごころがわからない。語る資格はありませんね』と静かにほほえむ」と書かれている。「私は男ごころがわからなかったと同時に、私の女ごころもわかってもらえなかった。両方ともひとりよがりだったのね」とも語った。「駿馬痴漢を乗せて走る」と、ある婦人雑誌が二人を評したという。同書は「(あき夫人が)あまりにも賢すぎたため、男の心が離れたといえないこともなさそうだ。あまりの“駿馬”ぶりに“痴漢”はついに乗っているのに力及ばなくなってしまったのだろうか」と書いている。