『インド残酷物語 世界一たくましい民』(池亀彩 著)集英社新書

「自分はインドのことをあまりにも知らなかった」。本書を読み終わったあと、そう愕然とする人も多いのではないだろうか。経済成長著しいIT大国、大量の映画を世界に発信するボリウッド、世界遺産に指定されている建築の数々……これらはインドのほんの一面でしかない。

 2009年から2019年までインド南部の都市ベンガルールを拠点にフィールドワークを行い、このほど『インド残酷物語 世界一たくましい民』を上梓した池亀彩さんは「日本で得られるインドの情報は極端に少ないのでは」と語る。

「そもそも規模や多様性が、一つの国というにはちょっと大きすぎるんです。使われている言語もさまざま。うちに来てくれていたアムダーというお手伝いさんはカンナダ語、タミル語、テルグ語と3つの言語が話せますが、義理の息子が連れてきたインド北部出身の恋人に言葉がぜんぜん通じないと文句を言っていました。アムダーはヒンディー語など北インドの言葉はまったく分かりませんから」

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 池亀さんが現地で出会った市井の人々の生活を描いた本書は、南インドの現状をこの上なくリアルに伝えてくれる。

「普通の人のことを知ってもらわなくては、と思い、滞在中に仲良くなり、家族ぐるみで付き合っている人たちのことを書きました。物語感覚で読んでもらえるよう心がけつつ、前提となる知識や情報を随時入れていく形式を取っています」

 学校に通ったことがなく、文字を読むことも書くこともできない家事手伝いのアムダー。自殺した妻の親族から、殺人で訴えられた運転手のスレーシュ。池亀さんはこれらのエピソードから、インドの文化や独特の慣習、そこから生じる問題などを引き出していく。

 なかでもダリト(旧不可触民)差別から生じる「名誉殺人」は、インドの残酷さを表す最たるものといえるだろう。本書では両親の反対を押し切ってダリトと結婚した女性、カウサリヤのエピソードが取り上げられている。彼女は夫婦で買い物を終えて歩いていたところ、両親が雇った5人の男たちに襲われた。刃物で切りつけられ、夫は死亡。本人も重傷を負った。

「名誉殺人が起こる背景は、やはりカーストです。ダリトとの結婚は認められないという一点。ヒンドゥー社会の基盤には浄・不浄観があり、汚れた血が入ったら、自分たちの家族親戚、全部が不浄だと思われるという恐怖がある。それが殺人にまで発展するのです」

池亀彩さん 撮影/露木聡子

 カースト差別や役人の腐敗、女性に対する人権意識の欠如など、根深い闇を抱え続けているインド。だがそこで生きる人々はたくましい。人間関係のネットワークが張り巡らされており、困ったことがあっても「なんとかなる」のだという。

「もともと上下関係がはっきりしている社会なので、インドの人は、私のように人をお雇いしているマダムにはお金を借りていいし、苦しければ返さなくてもいいと思っている。今、私はアムダーの子供たちの教育費をぜんぶ払っていますし(笑)。この本を読んだ方から『インドには親ガチャのような概念はないのか』と聞かれましたが、彼らは自らのカーストを受け入れていて、自己肯定感は日本より上じゃないかという気がします。親族やサンガ(職業組合/互助組織)の関わりのなかで、誰にでも頼れる人が必ずいて、孤独を感じている人は少ない。『これからもっと良くなるんじゃないか』という未来への希望もある。貧困にあっても、惨めではないのがインドの人々なんです」

いけがめあや/1969年、東京都生まれ。京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科准教授。京都大学大学院、インド国立言語研究所などで学び、英国エディンバラ大学にて博士号(社会人類学)を取得。東京大学東洋文化研究所准教授を経て現職。