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1日も離れて暮らすのは嫌です

 その後、義江は国内外での公演を続ける中、二人の逢瀬も繰り返され、いつしか人の口に上るようになる。気遣った東京朝日の村山龍平社長らの勧めで、義江はアメリカ各地で公演した後、パリ、ロンドンを経て再びイタリアへ。

 あきはそれ以前から夫に離婚を求めていたが、なかなか話がまとまらず、正式に成立したのは1928年1月。翌2月、義江の歌う「出船の港」が日本ビクターの電気吹き込み式レコード第1号として発売され、好評を博した。義江にはあきから情熱的な電報や手紙が次々届く。「1日も離れて暮らすのは嫌です」「Im yours forever Aki」……。

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 同年8月9日、国民新聞夕刊に特ダネが載る。「藤原義江氏の許へ 戀の宮下博士夫人 結婚する為に走る 近くミラノへ来ると 藤原氏自身から消息」「美しき歌人 書家としての女史 二人の娘と博士を残して 結ばれた藝術の戀」の見出し。二人の写真を大きく載せ、あきのおいたちから身に着けた教養、結婚と家庭生活、2人の子どもがいることなどを記述している。ただ、既に離婚していることは触れていない。おそらく、あきの友人あたりが情報を提供したのではないか。

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2人の恋を報じた国民新聞のスクープ記事(1928年8月9日夕刊)

 同じ日の東京朝日夕刊にも「藤原義江の不義の恋人 結婚を目当てにイタリーへ」という2段の記事が載った。こちらは「批判」「断罪」のニュアンスが強く、藤原義江が「あき子と姦通し、あき子は子まである家庭をよそに醜行をつづけ、女は出身校学習院の常磐会からも除名に付せられ、また親族会議の結果、離婚されたもので、その当時からつまはじきを受けていたものである」と手厳しい。

 実際、あきは周囲からの批判を受け、中上川家からも絶縁されて、実母の姓・松永を名乗らざるを得ない事情に追い込まれていた。ただ、この間にも義江には複数の結婚話が起きている。

出帆直前の鹿島丸に無事乗船

 10日後の8月19日付東京日日夕刊には「テナー藤原を慕って 松永秋子・戀の船出 元の宮下博士夫人 夫と愛児を捨ててミラノへ」のスクープ記事。「彼女のイタリー行きが実家中上川家の耳に入ったので、十五日夜突如として姿をくらまし、中上川家の秘密裡の捜索を巧みに逃れて、十八日正午門司出帆の郵船鹿島丸Aデッキ六号の一等船客松永秋として単身渡欧の途についた」と報じた。

あきの日本脱出を伝えた東京日日の記事(1928年8月19日夕刊)

 また「独占インタビュー」として、あきは「藤原さんの芸術に対する限りない敬虔な態度に、私としてひきずられないではいられませんでした」と語っている。これはイタリアにいる義江のもとに向かうため、門司の旅館に潜伏したあきを大阪毎日(東京日日)の記者がかぎつけ、写真を撮らない条件で取材。見返りに、あきを鹿島丸に乗船させる手引きをした結果だった。

「我があき子抄」によれば、「特別ランチで六連島付近の海上を三時間走りまわって他社の目をくらまし、出帆直前の鹿島丸に無事乗船させたという、劇的な一幕であった」という。