大ノ里の死と、革新的な相撲興行の限界
大陸での巡業は兵隊たちには好評だったが、その中で大ノ里が発病。大連の病院に入院し、長い闘病の末、1938年1月、肋膜炎で死亡する。それに先立つ1937年1月、関西角力協会は大阪で7日間の興行を打ち、それを最後に同年12月、解散する。
「関西角力突如解散 天龍、山錦は引退 新進力士は東京方に復帰」。12月5日付東京朝日の見出し。「苦節五年土俵を割る」が物悲しい。「革命」は成就しないまま終わった。17人が協会に復帰。10人が廃業した。
「力士の生活権を確立しようとして動いた天龍一派の行動には明らかに時代的な合理性があった」と尾崎士郎「時代を見る眼」は述べる。
「昭和大相撲騒動記」は、天龍らの革新的な相撲興行について「新鮮味の追求は同時に『常に新しいものを開発しなくてはならない』という泥沼にはまり続けることを意味した」と分析。存続が危ぶまれた大日本相撲協会が、復帰組を迎えて曲がりなりにも興行を続けているのと対比して「本家の相撲協会で行われている『伝統の相撲』に勝てるのはほんの一瞬でしかなかったのだ」と述べている。
「日本の相撲界が続いてきたのは、保守性の中にある種の納得性が存在していたからだと思う。いわゆる『偉大なるマンネリ化』を観衆が認めてくれているのだ」とも。
天龍には強力なブレーンがいた
これに対し、天龍は「相撲風雲録」で地方巡業でのトーナメントなどの方式を「最良・至上のもの」と強調する一方、挫折の最大の原因として「協会の目に見えぬ圧力」を挙げている。
しかし、この事件の新聞記事や資料を読んでいると、もう少し裏があったような気がしてならない。
天龍には強力なブレーンがいた。後援会「天龍会」会長で、前・東京市会議員の茂木久平。早稲田大在学中、のちに有名作家となる尾崎士郎とともに学内の勢力争いに絡んだ「早稲田騒動」に加わり、大学を中退。尾崎とともに社会主義者堺利彦が経営していた出版社「売文社」に入った後、市会議員選挙に出馬し、当選した。尾崎の人気小説「人生劇場」に登場する高見剛平のモデルとされる。
この名前を見たとき、筆者は思い出した。「昭和の35大事件」の「東京都大疑獄事件」で、京成電鉄の都心乗り入れに絡んで、同社の実情を革新倶楽部の志村清右衛門衆院議員に伝え、京成から志村を通じて現金を受け取ったとされた市会議員。相次ぐ汚職事件で市会議員が大量逮捕されて市会が解散命令を受け、失職。有罪判決を受けた。
茂木には逸話が多い。ロシア革命直後に現地に行き、レーニンから活動資金300万円をもらう約束をしたことを自分で書いている。佐野眞一氏は「畸人巡礼怪人礼讃」で茂木を一種独特の魅力を持つ人物として取り上げている。