戦前の事件には、その時代ならではの事情を感じさせるものが多い。しかし、その中でも「現代に起きてもおかしくない」と思わせる事件もある。今回の「谷口富士郎の犯罪」などはその筆頭だろう。

 資産家の御曹司で芸術家志望の「白面の貴公子」が都会の誘惑に惑わされて身を持ち崩し、妖艶な女性ダンサーとの恋の果てに悪の道へ。老女を殺害し、共犯の次弟も殺害。末弟を口封じで「精神病院」に押し込め、裁判では「自分は超人」と豪語する――。犯罪実話に必要な要素がそろっていて、いまでも週刊誌やテレビのワイドショーが大騒ぎするだろう。

谷口富士郎(東京朝日新聞より)

 しかし、時は大恐慌に続く深刻な不景気の中、「エロ・グロ・ナンセンス」の文化が真っ盛り。メディアの報道ぶりも合わせて見ていくと、あちこちに時代が濃い影を落としている。登場する舞台の1つは、現在も存在する東京都立松沢病院(当時は府立)。現在の新聞用語では「精神病院」も「精神科(病院)、神経科(病院)」と言い換えなければならないなど、多くの取り決めがある。しかし、当時の一般的な認識を理解するためには、どうしても避けられない表現があり、今回も一部で使わせてもらう。

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「奇怪なる 松澤の老婆殺し 単なる物奪でなく 手がかり全くなし」

 1928年6月28日付東京朝日朝刊社会面2段の記事。「絞め殺された 老婆の死体 空家の中に横(た)はる 通りかゝつ(かっ)た巡査が発見」の見出しで本文は次のようだった。「27日午後10時ごろ、(東京)市外松沢村上北沢910水谷はる(66)は、布団の上に寝たまま絞殺されていたのを、同家前を通行しかかった松沢村駐在の中間巡査が、屋内より発散する悪臭により発見。検視すると、死後10日間を経過し、全身腐敗していた。目下世田ヶ谷署で取り調べ中」。

事件の端緒となった老女殺人事件の初報(東京朝日)

 29日付(28日発行)同紙夕刊には「奇怪なる 松澤の老婆殺し 単なる物奪(取り)でなく 手がかり全くなし」の見出しで続報が載っている。凶器は電灯のコードで、室内は荒らされており「明らかに強盗殺人とみられる」。被害者は夫と死別。2人の息子からの仕送りで「ただ一人楽隠居の生活をしていた」。事件発生前の行動も不明で「手がかりなく」と書いている。その後、この事件の報道はぷっつり途絶える。「警視庁史昭和前編」は「同家は人家から数百メートル離れた畑中の一軒家で、死後十数日も発見されずにいたことと、被害金品が不明のため、何の手がかりも得られず、遂に迷宮事件となった」と書いている。