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「精神病院は家の人が厄介払いしたものを檻に入れて預かっておくところでした」

 こうした経緯では、新三郎が本当に精神医学的な障害があったのか、病院側はどう対応したのかに関心が向くのは当然だろう。4月25日付東朝朝刊は「精神たしかな 三男新三郎 発狂とは兄の画策か」の見出しで「入院後、非常に落ち着いています」「精神病の方は極めて穏やか」との松沢病院医員の談話を掲載。4月26日付東朝夕刊には、戸野原三男の父である医師が、「新三郎を精神病者とは認められないので、退院方を病院に迫ったこともあり、また父捨次郎氏へ数十回書状を出しても何ら返事がない」と語ったという記事が載っている。

 同じ紙面では、捨次郎から松沢病院に提出された医師の診断書の病名が「変質性精神病者、移り気、無為、浮浪、乱暴、意思滅薄弱」などと列記されていたと記述。警視庁医務課長の「新三郎の病気は素人ではちょっと狂人であるか否かの判別がつき難いが、大体同人の病気の特徴は、理由もなくして怒ったり、乱暴をはたらいたり、しつこくものを尋ねたりするような程度で、しいて入院、保護しなければならないような病人ではないが、保護者から入院を受ければ、当然治療しなければならないし、また入院した以上、やたらに退院させるわけにはいくまい」という談話を載せている。

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 同じ日付の読売には松沢病院側の談話が。「谷口新三郎は精神病者に相違ありません。対談しているときに常人と変わらないといっても、精神病者ではないとはいえない場合があります」。

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 4月26日付東朝朝刊の記事でも、松田直樹副院長と担当医が語っている。新三郎は母親を殴ったかどで(東京)九段の少年審判所に送られ、その際嘱託医が変質者と診断、鑑定。1月に父親同伴で入院を申し込んできたときも、入院患者専任医師が診察して変質性精神病者と認定して入院を許した。「本院としては十分監禁の要ありと認めて入院を許したので、その手続きは合法的であると信ずる。病院としては入院当時から今日まで、何ら手落ちはなかったと信ずる」。これが松沢病院の公式見解だったのだろう。

松沢病院のルーツは「狂人室」

「精神医学大事典」や「貧民の帝都」によれば、松沢病院のルーツは、明治維新後、貧民救済のために設けられた東京府養育院の施設の1つだった「狂人室」。1879年に独立して東京府癲狂院となり、巣鴨病院を経て1919年、現在地で府立松沢病院に。東京帝大医学部の精神科教授が代々院長を兼任し、「わが国の精神医学、精神医療の中心となってきた」(「精神医学大事典」)。

 一方で「日本残酷物語現代編第1 引き裂かれた時代」には、1933年から同病院で看護人をしていた人の手記「きのうまでの松沢病院」が収録されている。戦争を挟んだ時期の病院の日常が描かれているが、その中にこんな記述がある。「その当時の精神病院は病気を治すところじゃありませんや。家の人が厄介払いしたものを檻に入れて預かっておくところでした」。これもまた実態の一面であり、谷口新三郎が直面した現実だったのではないか。

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