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「息子を入院させて」と懇願

 同書によれば、次に動きがあったのは1年半余り後の1930年1月。東京府荏原郡松沢村の府立松沢病院を谷口捨次郎という「紳士」が訪れ、同行した若者を「これは三男の新三郎だが、精神に異常があるので入院させてほしい」と申し入れた。診断で入院を必要とするほどの症状は認められなかったが、捨次郎は「自分は北海道で眼科病院を経営しているが、軽いうちに治療したい。本人も納得している」と再三懇請するので、病院側も遂に折れて自費治療患者として2等室に入院させたという。

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 捨次郎は数年前に妻を病気で失い、前年1929年に再婚。4男1女があったが、長男・富士郎、二男・省次郎、三男・新三郎の3人は1927年春、それぞれの進学のために上京。世田谷・経堂の一軒家を借りて同居していた。ところが、省次郎は1928年10月から所在不明になり、富士郎からは「無断で満州(現中国東北部)に行ったらしい」と聞いた。富士郎と新三郎は1929年にいずれも学校を退学して家に帰ったが、新三郎は継母に食ってかかって殴打したり、急に興奮したりするようになった。富士郎は「新三郎は気が変になっているから、軽いうちに松沢病院に入院させた方がいい」と捨次郎に勧めたのだという。

二男が殴り殺されて発見 殺したのは“長男の富士郎”だった

 その約3カ月後の1930年4月24日。午前10時ごろ、東京・大井署に地元の開業医の長男を名乗る若い男が来て重大な話をした。「先日の新聞に、約3年前に東京から発送したらしい行李詰めの死体が北海道・夕張の運送店倉庫から発見されたという記事が載っていたが、それは札幌の谷口さんの二男省次郎ではないだろうか」。

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 男は戸野原三男といい、父は谷口捨次郎と親しく、自分も新三郎とは兄弟のように付き合っていた。ところが、今年になって新三郎が松沢病院に入院。自分も度々見舞いに行ったが、三男の父は「精神病の兆候はない」と言う。きょう病院から呼び出されて行ってみると、新三郎は重い中耳炎にかかっており、自分に「言っても信用されないし、一生隠しておこうと思ったが、実は省次郎兄さんは富士郎兄さんに殺されたのだ」と語った。ついては夕張の死体を調べてほしいという。報告を受けた警視庁捜査一課は捜査員を松沢病院に派遣。新三郎から次のような供述を得た。

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 1928年11月11日午後4時ごろ、新三郎が外出先から家に帰ると、省次郎が血まみれになってうめいており、富士郎が彫刻で使う玄翁(大型の鉄槌)で殴ろうとしていた。新三郎が止めようとすると、「邪魔するな」と脅されて震え上がってしまった。富士郎は省次郎の頭を続けざまに殴って殺害。3日ほど押し入れに隠した後、新三郎に手伝わせ、玄関脇の空き地に掘った穴に埋めたという。現場を掘り起こしてみると、新三郎の供述通り、頭を割られた省次郎の死体が発見された。