「戦場の疫学」によれば、実は北野が浜松に向かう5月13日午後11時すぎの時点で、検体からゲルトネル菌の免疫血清によく凝集するコロニー(単一細胞の塊)を発見していた。14日朝、浜松に着いた北野は、衛戍病院で患者の状態を見たうえ、現地の検査結果からも同菌による中毒と確信。午後4時、上司を通じて軍医学校長らに報告した。新聞や捜査当局がまだ毒物混入事件の見方を残していた段階で、既に原因に結論を出していたことになる。

丸1 日以上早く軍が「ゲルトネル菌による中毒」と断定できた理由

 日本では浜松の事件以前に1931年5月、神奈川県での結婚披露宴に出されたカマボコで90人が発症。うち8人が死亡した事件をはじめ、ゲルトネル菌による食中毒が7回起きていた。うち陸軍では1933年に糧秣本廠で、1935年には京都府と鳥取県での演習で発生。中でも1935年10月、歩兵39連隊(姫路)が鳥取の小さな村で演習中、地元民が開いた歓迎宴会でタコ、竹輪、カマボコ、サバなどによる食中毒が起きた。兵士54人が発症、うち4人が死亡。民間人からも100人以上(うち死亡1人)の患者が出た。このときは、糧秣本廠での事件以後、準備していたゲルトネル菌の反応用血清が原因究明に役立った。そうした経験から、北野は浜松衛戍病院を訪れた際にも血清を持参。緑川・静岡県衛生課長に渡した。

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「それにしても非常に素早い対応である」と「戦場の疫学」は評し、それは浜松の部隊が陸軍飛行第7連隊だったためかもしれないと書いている。1925年の宇垣軍縮を逆手にとって誕生した、当時日本軍では唯一の重爆撃部隊を持つ「虎の子」の部隊。搭乗員を養成する飛行学校も併設されていたが、今回の事件では、その生徒からも被害者が出ていた。万が一、隊員らを狙った犯行だったら、という危惧があったのは間違いない。

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 一方、静岡県衛生部の検査では、ヒ素、銅、青酸の化合物の反応は認められず、その他の毒物全般を4昼夜にわたって検査したが、金属化合物と有機物も検出されなかった。そして患者4人の糞便を培養して検査したところ、コロニーを発見。ゲルトネル菌の血清の必要を感じたので15日朝、浜松衛戍病院から入手。同日午後、定量凝集反応試験を実施し、ゲルトネル菌と決定した。つまり、県にはゲルトネル菌と確定するための反応試験に必要な血清がなく、軍から譲り受けたということ。北野が持参したものだったのだろう。軍の原因確定が県より丸1日以上早かったのは、血清を保有していたかどうかの差だった。