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 同部隊の母体となったのは陸軍軍医学校「防疫研究室」。「七三一部隊などは実戦部隊で、防疫研究室が後方の司令部だった」(同書)。「当初は『戦役研究室』の名称で軍医学校防疫学教室(防疫部)に付属するような形だったが、いつの間にか全体を乗っ取る形になった」と常石氏は言う。「石井(四郎・元軍医中将)が全体を指揮しており、敗戦まで防疫研究室と防疫学教室は存在した」。同書によれば、その防疫研究室は浜松の事件に並々ならぬ関心を示し、石井をはじめ、細菌の専門家チームを現地に派遣。猛スピードで原因究明を進め、チームのメンバーが多くの報告書を残している。そこからも事件の動きが見える。ちなみに「戦場の疫学」は死者を46人としている。

石井四郎元軍医中将

 同書によれば、「生徒の約3分の1が高熱、下痢、嘔吐などの症を惹起しあるも、右は三好野の大福餅による中毒ならん」と、浜松一中校長から浜松署に通報があったのは5月11日午後8時。午後11時ごろには、浜松署から静岡県に電話で報告があった。当時の緑川・県衛生課長がのちに医学雑誌の座談会で語ったところでは、技師を現地に派遣。12日午前5時ごろから大福餅の検査を開始した。

「三百名中毒 濱(浜)松一中で 四五十名重態」。初報となった1936年5月12日付東京朝日(東朝)朝刊の扱いは社会面2段だった。「【浜松電話】浜松第一中学校では10日、運動会を催し、大福餅6個ずつを全校生に配ったが、これを食した生徒、教員に中毒症状を起こす者続出。11日夜までに教師谷崎延、桜井実、伊藤豊次郎3氏及び4年生富田忠夫(17)ほか生徒4、50名の重態者を出した。午後11時半、学校当局の発表によると、中毒者300名に上る見込みで、あるいはもっと増加するかもしれないと言っている」。この時点で既に大規模食中毒だが、事態はその後エスカレートする。

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大食中毒事件の初報(東京朝日)

 5月12日に登校してきた生徒は338人で、欠席が662人。「無理して登校した生徒が85人おり、単なる中毒事件にとどまらず、重大なる状況に驚いたのである」(八十年史)。5月13日付東朝夕刊(12日発行)は「浜松の中毒患者 千名に達す 兵士などにも波及」の見出し。「12日朝までに浜松一中関係748名の中毒者と6名の死亡者が判明したが、一中のみでなく、市内の各中等、小学校児童らにも及び、各校10名内外。さらに浜松飛行第7連隊兵士26名、高射砲第1連隊兵士5名、浜松飛行学校生徒2名も中毒し、総数1千名を超えることが分かった」。被害は中学の生徒、教師とその家族だけでなく、陸軍兵士にも及んでいた。 

 当時陸軍軍医部衛生課員兼軍医学校防疫学教室教官の二等軍医正で、現地調査に従事、のちに関東軍防疫給水部、通称七三一部隊の第2代部隊長となる北野政次・元軍医中将の回想によると、東京の陸軍軍医部に連絡が入ったのは5月12日午後3時。「浜松部隊に食中毒患者約40人発生。うち20数人入院。発熱40度に達する者あり。重症者多数。兵士が5月10日に外出し、三好野で大福餅を食べたことが原因」という名古屋の陸軍第3師団軍医部からの電話だった。急を要するので、電報で浜松衛戍病院に検体を送付するよう依頼。13日午前6時、到着した検体の分離培養を始めた(「戦場の疫学」)。

大量殺人事件? 何者かが毒物を混入させたのか

 さらに前述の東朝の初報記事には「大福餅を納入した同市鍛冶町76、菓子店兼喫茶店三好野こと木俣きぬ方の調査と、大福餅に用いた餡(あん)及び打ち粉の分析試験を行っている」とある。興味深いのは、この時点で早々と原因説を打ち出していること。「原因は緑青」の見出しで、「餡(小豆と隠元豆)、皮(餅)、打ち粉(デンプン)など分析の結果、異常なく、三好野で銅鍋を使用し、その銅鍋に発生する緑青によるものと推断されるに至った」とある。緑青原因説はその後も各紙に登場する。確かに1960年代までは緑青は猛毒とされていたが、一体どこから出た情報だったのだろうか。