「この事件発生の有力なる原因の1つと思われる男女関係の淫風存否の問題である」と「津山事件の展望」で鹽田検事も書く。「でき得る限りの調査をしたのであるが、部落外の者が大部分、この悪習の存在を肯定するに反して、部落民の大半及び駐在巡査はその風習の現存することを否定し去って、この事件によって暴露されたいろいろの男女関係弛緩の事実は、この犯人の都井睦雄を中心とする例外のことたるにすぎないと主張し、ただ2、30年前まで夜這いの弊風があったことを認むるにとどまるのであるが……」。地元は徹底して否定したということだ。
「夜這い」とは「男が夜間、女のもとに通うこと。若者組の支援と承認を得ている場合もあった」(「精選日本民俗辞典」)。民俗学の泰斗・柳田国男は「男女の呼び合う(ヨバウ)歌垣の名残り」で中世以前の「通い婚」の一種と考えた。いまでは信じられないだろうが、家々がほとんど戸締りをせず、明かりもなかった時代、男が夜、女の家に忍び込んで性的交渉を持つ。地域によってそれぞれ「取り決め」や「条件」が違ったが、農村や山村などでほぼ全国的に行われていたとされる。
立石憲利「岡山の色ばなし 夜這いのあったころ」も「相手の意思を無視して忍び込むという例もなくはなかったが、多くは事前に相手の同意を得て訪ねたもので、それも性交渉が必ず伴うというものではなかったようだ」とした。「ヨバイで関係ができ、結婚に至る例もあり、自由恋愛による結婚であり、性的には自由であったが無規律ではなかった」
この後、夜這いの文化は「大正から昭和にかけての青年会運動や官憲の取り締まりでほぼなくなり」(「精選日本民俗辞典」)とあるが、清泉亮「夜這いはかくして消えた」(「望星」2017年2月号所収)は事件現場と同様、中国山地の山中に位置する山口県周南市出身の男性の証言として「戦後も長らく夜這いが活発だったことを覚えている」と書いている。地域によって実態は異なっていたのだろうか。いずれにしろ、事件との関連性ははっきりしない。
「克服されない肺結核に対する不安の感情である」
遺書はあるものの、睦雄が死亡した結果、さまざまな分析が登場したものの、犯行の動機については遂に未解明のまま事件は終わった。「自殺 精神病理学的考察」によれば、事件前、睦雄の観察・指導を続けていた西加茂村担当の今田武司・加茂駐在所巡査(当時)は、睦雄が自殺を決意した原因に次の3つを挙げたという。
(1) 徴兵検査に不合格だった
(2) 祖父、両親とも肺結核で死亡し、彼の家系がいわゆる「結核筋(すじ)」(「労咳筋」とも呼ばれた)として嫌悪・白眼視され、自分でも再起不能と考えた
(3) 恋愛、性生活が円満に行われず、うとんぜられた
さらに「津山事件報告書」の中で内務省防犯課情報係の和泉正雄・係官は「犯行原因(動機)を主観的方面よりこれを見ると」として列挙している。
(1) 犯人の変質的性格
(2) 疾病よりの厭世観
(3) 離反せる女に対する復讐心
また「客観的諸原因」として次を挙げた。