「ドン!! と弾けるような音が突如夜のしじまを破ったが、まだ気づく人が少なかった。続いてドン! ドン! という鉄砲の発射音が起こり、同時に『助けて!』と悲鳴があがり、さらにこの音がだんだんと近づいてくると、何事か重大な異変が起こりつつあることが村人たちに分かり始めた。同時にこれは、かねて心配していた同部落の都井睦雄(22)が人殺しを始めた、そして、鉄砲を撃ちながら手当たり次第に殺戮を加えて回っていると感じた時、村人は恐怖におののき、逃げ支度を始めたが、それよりも殺戮者の襲撃の方が一瞬早かった。表出入り口のつっかい棒を必死で押さえ、侵入を防いでいた者は板戸もろとも撃ち倒され、縁から走り出た者は背後から狙い撃ちされた。ある若夫婦は一つ布団の中で並んだまま射殺された」(「岡山県警察史下巻」)=当時の記録は全て数え年齢。

 82年前に起きた「津山三十人殺し」は、被害者の多さと態様の異常さなどから日本の犯罪史上名高い事件だ。

「八つ墓村」のモデルにもなった事件

 岡山県の山村・西加茂村(現津山市)で21歳(満年齢)の青年が祖母をオノで殺した後、猟銃と日本刀で近隣の家を次々襲撃。住民を殺害して自殺した。殺された住民は計30人、重軽傷3人。「怪物三つ目小僧のように、頭の両側に棒型懐中電灯を固定し、胸にも自転車用の角型電灯を吊った都井睦雄は、腰に日本刀を差し込み、懐に短刀、さらに猟銃から弾薬袋まで持ち、巻き脚絆、地下足袋姿という装備で荒れ狂い、部落内過半数の家々を襲った。暗夜にこの三つの光芒に照らし出された者は、そして悪鬼のような姿を見た者は、その瞬間がこの世の別れとなった。殺戮者の魔手は幼児・老婆の見境なく降り注ぎ、午前3時ごろ走り去った」(同書)。銃の腕は正確無比。その姿は悪夢のように強烈で、事件は横溝正史のミステリー小説「八つ墓村」のモデルにもなった。

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 事件にはさまざまな背景が絡み合っていた。地域の閉鎖性、男女を中心にした人間関係の複雑さ、結核に対する視線、徴兵検査の意味、容疑者の心理的な問題……。そのため、地域では長い間タブー視された。そうしたことから生まれた誤解なのだろうか。加太こうじ「昭和犯罪史」にはこう書かれている。

「昭和12年末には岡山県下の山村で、怨恨による40数人殺しという殺人事件があったが、その新聞記事など、どこを探してもない。おそらく、地方紙にほんの小さい形で報道されただけだと思われる」。時期も人数も間違っているだけでなく、実際には全国紙でも報道されている。それでも、事件の重大さに比べれば量は極端に少なく、公表をはばかる配慮が濃厚に感じられるが……。現在の視点から事件をできるだけ客観的に見てみる(容疑者の青年以外は姓名を省略。差別語を使用)。

「世界犯罪史上にも特筆さるべき」

「三十二名を殺傷す 失戀(恋)・病苦に狂ふ(う)農村青年 岡山縣(県)下の鬼熊自殺」。これが1938年5月22日付(21日発行)東京朝日(東朝)夕刊2面4段の記事の見出しだ。「【津山電話】21日午前1時40分ごろ、岡山県苫田郡西加茂村字行重平井、農業都井睦雄(22)は部落への送電線を切り、頭にナショナルランプを括り付け、イノシシ狩り用口径12番10連発の猟銃と日本刀を携え、まず自分の母(祖母の誤り)の首をオノではね、即死せしめたうえ、隣家の女性(47)方に闖入。女性に重傷を負わせ(午前9時死亡)、娘(21)を即死せしめ、次いで日本刀と猟銃で次々に部落民27名を殺害。さらに2名に重軽傷を負わせ、中国山脈内に遁入。午前10時半ごろ、同村青山の荒坂峠付近の山林中で猟銃をもって自殺をした」。