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「村の女たちは人妻、娘の区別なく追い回し、執拗に迫り、ある時は暴力を振るったりし、漸次部落から指弾され始め、また親しい人々はいろいろ忠告したのですが、一向反省をしませんでした。指弾されるのは当然のことです。それを、当人はすっかりひがみ、部落民に食ってかかり、いろいろ嫌がらせをしますから村人から嫌われました。最近は形相まですっかり変わっておりました。村からこんな恐ろしい殺人鬼を出したことは実に残念です」。こちらはあくまで住民側の言い分だ。2面には「犯人の使用した凶器」「犯人自殺の現場」など写真4枚を載せている。大朝のこの事件の報道もここで終わる。

 合同は社会面トップで「猟銃凶魔後聞」として「一年間人射ちの練習 銃四挺(ちょう)に弾丸五百發用意」という記事。銃4丁を買い入れ、犯行の1年以上前から2キロ以上離れた密林で、松の木を目標に秘密の射撃訓練をしたという話題。合同葬の雑観記事もあり、写真も「犯人使用の凶器」や標的とした松の木などが掲載されているが、特筆すべきは、現在も事件関連で登場する成人してからの睦雄の顔写真を載せたこと。「凶行直前の犯人都井」と説明があるが、実際の撮影時期は不明という。この後、この事件の報道は合同の「稀(希)代の殺人鬼・都井睦雄」という連載企画だけになる。5月24日付夕刊(5月23日発行)から5回続き。生い立ちから小学校時代、結核との闘病、女性への思いと恨みなどを描いた。こうして津山三十人殺しの新聞報道は幕を閉じた。

都井睦雄の写真。撮影日時は不明となっている(「津山事件の真実」所収「津山事件報告書」より)

 この事件のドキュメントとして有名な本がある。1981年9月に出版された筑波昭「津山三十人殺し 村の秀才青年はなぜ凶行に及んだか」(草思社)。その中には事件記録として「津山事件報告書」が何度も登場する。表紙の写真も載っており、「司法省検事局」が事件から約1年半後の1939年12月に出した「極秘」文書だ。国会図書館にも収蔵されておらず、石川清「津山三十人殺し最後の真相」によればアメリカのスタンフォード大図書館に収蔵されてあり、事件研究所編著「津山事件の真実第3版」にほぼ全編が収録されていた。そこに収録されている鹽田末平・岡山地裁検事が調査・執筆した「津山事件の展望」で事件の全容が分かる。それに沿って経緯を見よう。

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「頭脳明晰、常に優秀な学業成績をあげ、将来を嘱望されていた」

 睦雄の父は「睦雄が2歳の時、感冒(あるいは肺結核)が原因で38、9歳で死亡した」。母は病弱で「自らは慢性気管支カタルだと言っていたそうだが、実は肺結核を患っていたものと思われる」。その母も夫の後を追って世を去った。睦雄の血族中に精神障害者がいないことは確認できた。「彼に片親なりともあったならば、本件のごとき凶事は絶対に惹起されていないと確信する。彼が親の愛に欠けていたことが本件の有力なる一原因を形成することは否めない事実だと思う」。

 両親が死亡した時、1町3段(反)の田畑と約8反の山林が残されており、相当裕福な農家だったことが想像できるという。彼が6歳の時、彼と姉は祖母に連れられて、祖母の郷里である貝尾地区に移住。姉弟は「ただ祖母を頼りに、その盲目的愛のうちに養育せられて成長したため、自然睦雄はわがままな性質となってしまった」。