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 記事はさらに続く。「犯人都井は小学校時代、級長を務めた秀才であったが、小学校教員検定試験の勉強中、神経衰弱となり、漸次狂暴となってきた」「平素はごくおとなしい男であるが、この凶行は計画的のものとみられ、凶行に用いたイノシシ狩り用の猟銃のごときは、2、3年前から同人所有の田一反歩を売って買っていたものである。また犯人は肺病で近所の者ののけ者にされ、しかも最近、女の問題で失恋していた」

 驚くことに、この事件についての東朝の記事はこの1本だけ。対する東京日日(東日)の同じ5月22日付夕刊は2面トップで大きく報道。「就寝中の村を襲ひ(い) 猟銃で卅(30)名を射殺す」が見出しで、被害者の氏名一覧など、記事は質量とも豊富で記述にも迫力がある。岡山県警察部から内務省宛ての公電も掲載。さらに「午前3時ごろ、同村奈良井の民家に立ち寄り、紙と鉛筆を出させ『目的の人物を殺すまでは俺は死なぬ』と書き記し、再び闇の中へ姿を消した」という記述も。記事には、警視庁鑑識係長の「単独犯行であるのと被害者の数において、わが国犯罪史上のレコードであるとともに、世界犯罪史上にも特筆さるべき事件である」という談話も添えられている。

 岡山の地元紙「合同新聞」(現山陽新聞)では、5月22日付夕刊はほぼ2面全部をつぶして報じている。「戦慄!二十八名を射殺」の横見出しに「九連發(発)の猟銃を亂(乱)射 十二戸の寝込(み)を襲撃 今暁作州西加茂の凶劇」などの見出しで、記述は詳しいが、内容はほぼ全国紙2紙と同様。被害者と容疑者の家、「犯人の登った電柱」の写真がこの段階で掲載されている。興味深いのは「鬼熊」の見出しが複数登場すること。連載「昭和の35大事件」でも紹介した鬼熊事件が千葉県で起きたのは1926年。既に12年がたっていたうえ、鬼熊こと岩淵熊次郎が殺したのは3人と津山事件の10分の1。それでも一世を風靡した事件の記憶は強烈だったのだろう。

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地元紙「合同新聞」の事件第1報

睦雄が残した3通の遺書に書かれていたこと

 次の5月22日付朝刊段階。東日は社会面2段で「小學(学)生時代を 懐しむ殺人鬼 卅人殺し・血の遺書」という記事を載せた。「遺書は自宅に2通、自殺現場に1通発見された」とし、自宅の1通には「僕は決して精神異常者ではない。9カ年の間、不治の病と闘い、その間僕を冷遇し、虐待した村の人々に復讐するのだ。思えば、真面目で先生からかわいがられていた小学生時代が懐かしい」と書かれていたという。そして、自殺現場の1通の内容は次のようだった。