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 満14歳で小学校高等科2年を卒業。病弱で欠席が多かったが、「頭脳明晰、常に優秀な学業成績をあげ、将来を嘱望されていた」、「同級生らの気受けもよく、常に級長または副級長に選挙せられ、まさに模範的小学生であった。ただ家庭的事情によるか、はたまた病弱のゆえか性格陰性であって快活明朗を欠いていた」、「何となく寂しさのある生徒だったということである。生来孤独の質で先輩、親族、友人間には指導者となったり親交を結んだりした者もなく、その他、本人の性格に特別の影響を与えた人物は全くない」という。

上級学校への進学断念&姉の結婚で増した「孤独」

 卒業の際、その才を惜しんだ担任教師から「上級学校に進んだらどうか」と勧められたが、「孫1人の祖母は彼を手放すことをがえんぜず、ためにそのまま家に残ることになった」。が、その卒業の春、肋膜炎(胸膜炎=主として結核菌によって起こる胸膜の炎症)を患い、約3カ月ぶらぶらした。身体的にも農業を続けることが難しいのを自覚したが「確固たる志望を立ててこれに邁進せんとするだけの気力もなく」、「何の目的も何の希望もなく、毎日毎日を過ごしていくにすぎなかった」。

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 肋膜炎も小康を得たので、旧制中学・高校に進まなかった農家の子弟を教育する実業補習学校と、徴兵検査まで軍事演習や実業教育を施す青年訓練所に入ったが、いずれも病気を理由に欠席しがち。「かくするうち、その陰鬱性は次第に深刻化し、外出を好まず、部落の青年団、及び隣人たちとの交際に無関心となり、親族らより注意しても青年団の会合や夜警などにもあまり出ず、また近隣の寄り合いごと、法会、葬式などにも顔を現さず、入営兵の見送りなども怠りがちで、次第に孤独に陥り、終日家に閑居してこたつにあたり、雑誌を読む程度で他になすこともなく、徒食を続けていた」。

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 1934年3月、睦雄が満17歳の時、姉が他地区の男性と結婚して家を出た。「語るべき相手もなく、一層孤独の癖を増し、ますます放縦怠惰に陥り、労働を嫌い、家業の農は老いたる祖母の手一つに任せて、自らは時折その手伝いをなすにすぎない状態であった」