徴兵検査の結果は「甲」「乙」「丙」「丁」「戊」の5種類に分かれ、乙には第1種と第2種があった(のちに第3種が加わる)。一ノ瀬俊也「皇軍兵士の日常生活」などによれば、1927年以降、甲種は「身長155センチ以上で身体強健な者」、乙種は「甲種に次ぐ者」とされた。甲種と第一乙種が「合格」で、その年12月以降に入営する「現役兵」として徴兵された。丙は「現役に適さざる者」など、丁は「兵役に適さざる者」などで、戊種は翌年再検査の対象。受験者の約半数が甲と乙だった。兵役には現役、第一・第二補充兵役、第一・第二国民兵役があったが、丙種は第二国民兵役に服するとされる。熊谷直「帝国陸海軍の基礎知識」は「丙種は徴集を免除されて国民軍の要員になるが、平時は名目的であった」としている。要するに「不合格」ということだ。
睦雄にとって徴兵検査「不合格」は大きなショックだったに違いない。吉田裕「日本の軍隊」は「この徴兵検査は重要な『人生儀礼』の場でもあった」と書いている。「『人生儀礼』とは、人が生まれてから死ぬまでの間に、身体の発達や精神的な成長に応じて体験しなければならない儀礼や儀礼的な意味合いを持った試練のことを指す。若者たちは、徴兵検査を終えることで初めて『一人前』の男とみなされたのである」。同書によれば、戦前の農村社会を記録した本には「男子は徴兵検査がすむか除隊してくると、結婚話が盛んに出る」という証言があるという。
彼は「兵隊に行く」ことをそれまでの閉塞状態を一挙に解決する転機にしたかったのではないだろうか。「それ以来、彼の性格は一変し、極端に猜疑心深く、事物に対する認識ないし判断もはなはだしく偏奇(常識外れで風変わり)し、ことごとに偏執的な考え方をなし、ことに道義的感情が鈍り、極端に主我主義、自己中心主義的傾向を示し、自己の行為に対する反省力薄弱となり、その行動常軌を逸し、無暗に近隣の婦女子に手を出し始め、ために甚だしく部落民から嫌悪せらるるに至った」と「津山事件の展望」は認定している。
そのころ、睦雄は田畑と山林を担保に600円を借り、7月にはその金のうちから津山市の銃砲店で猟銃1丁を購入。警察から狩猟免許を取得した。その後、別の猟銃と交換して改造。毎日のように射撃練習をするようになった。やはり徴兵検査の失敗が犯行の引き金になったのは間違いないようだ。
自由恋愛だった「夜這い」という文化
「婦女に挑み、情交を迫り、応じないと恨み、応じても関係を継続しないと憤激し、いつしか世間にもうわさが広がって冷笑されるようになった」(岡山県警察史下巻)。睦雄を「色情狂」とした住民もいた。その背景として事件当初から言われていたのが、現場となった地域の性的な風土、具体的には「夜這(ば)い」の風習だ。