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肺結核、徴兵検査、夜這い……なぜ村の秀才青年は残酷すぎる「津山三十人殺し」を決行したのか

「八つ墓村」のモデルになった「津山三十人殺し」 #2

2020/06/21
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 しかし、一方で「犯人は徹底的に自己中心であり個人主義的である。彼はあくまで利己主義的にものを解釈している」、「全く非社会的な犯人の生活態度は、前述した犯人の国民的心情と決して一致するものではない」と断言。「言葉としては『国家』を論じ『非常時』を論じてはいるが、その言葉ほどに犯人は『国家』を考え『非常時』を考えたかどうか」、「そういうふうに問題を進めてみれば、われわれの誰一人、犯人の倫理を信用することはできない」と切り捨てている。

ここまでの大事件があまり詳しく報道されなかったのは……

 この検事の姿勢に時代が表れている。時は日中全面戦争に突入して2年目。事件の前々日、5月19日には、戦略上の要地である徐州が陥落し、新聞紙面は沸き立っていた。津山事件を取り上げた松本清張「闇に駆ける猟銃」(「ミステリーの系譜」所収)は「新聞は連日のように敵兵の大量死者数を発表し、日本軍隊の勇敢を報道していた。1人の機関銃手が数十人の敵兵を皆殺しにしたという『武勇伝』も伝えられた。これが睦雄の心理に影響を与えていなかったとはいえない」と言う。睦雄の“武装”したスタイルも、前年の「少年倶楽部」に掲載された「珍案歩哨」という中国戦線の兵士を描いた漫画がヒントだったとされる。

睦雄が参考にしたとされる「少年倶楽部」1937年12月掲載の漫画(「津山事件の真実」所収「津山事件報告書」より)

 ここまでの大事件があまり詳しく報道されなかったのはどうしてだろうか。それは、国家にとって津山事件のような出来事は銃後の国民の在り方からみて、絶対にあってはならなかった。士気に影響するからだ。新聞の扱いはそうした国民に共通する意識を反映していたように思える。地域にとってもそうだった。あまりの異様さ、残虐さに、社会的背景などを追求するより、容疑者に異常のレッテルを張って、なるべく早く一件落着させることが優先されたのだろう。そうしてこの事件は、どこか現実離れした悪夢のような殺人伝説として言い伝えられてきたのではないだろうか。

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 1975年に刊行された「加茂町史本編」は事件についてささやかにこう記述している。「戦争に非協力的な者は非国民よばわりされ、徴兵検査での甲種合格は成年男子の華であった。このような風潮の中で都井睦雄事件も発生したのであった」

【参考文献】 
▽「岡山県警察史下巻」 岡山県警察本部 1976年
▽加太こうじ「昭和犯罪史」 現代史出版会 1974年
▽筑波昭「津山三十人殺し 村の秀才青年はなぜ凶行に及んだか」 草思社 1981年
▽「津山事件報告書」 司法省検事局 1939年=事件研究所編著「津山事件の真実第3版」(2012年)収録
▽石川清「津山三十人殺し最後の真相」 ミリオン出版 2011年
▽中村一夫「自殺 精神病理学的考察」 紀伊国屋新書 1963年
▽吉田裕「日本軍兵士 アジア・太平洋戦争の現実」 中公新書 2017年
▽吉田裕「日本の軍隊」 岩波新書 2002年
▽「精選日本民俗辞典」 吉川弘文館 2006年
▽赤松啓介「夜這いの民俗学」 明石書店 1994年
▽立石憲利「岡山の色ばなし 夜這いのあったころ」 吉備人選書 2002年
▽土井卓治ら「岡山の民俗」 日本文教出版 1981年
▽清泉亮「夜這いはかくして消えた」=「望星」(東海教育研究所)2017年2月号所収
▽松本清張「闇に駆ける猟銃」=「ミステリーの系譜」(中公文庫1975年)所収
▽「加茂町史本編」 加茂町 1975年

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