「敗者」と「勝者」
1917年6月18日の控訴審判決では減刑されて懲役2年の判決。19日付東朝朝刊の見出しは「市子は控訴して二年儲(もう)けた」。市子はいったん上告したが、しばらくして取下げ、刑に服した。1919年10月3日、満期出獄。同日付読売朝刊には、新宿・中村屋の相馬黒光のもとに身を寄せること、ロシア人エスぺランチストのエロシェンコも再会を待っていることが書かれている。
さらに大杉の談話も。「出てくると聞いても、格別変わった感想もないよ」「文学生活に入るのが、あの人のために一番いいだろう」「会いたいなどとは思わないが、偶然会う機会でもあったら、さァ、、その時どんな顔をするかね」。
そばにいた野枝の話もある。「あの人のお友達が、神近さんは結婚するのが一番いい、家庭の主婦になればチャンと落ち着くことのできる人だから、その方が始終動揺しなくていいだろう、などと言っていたこともありますが、今後あの人がどうするとも、私は別にそんなことに対しては思うことはありませんね」。よくも悪くも生々しい2人だ。
そう語った大杉と野枝はそれから4年後の1923年9月、関東大震災後の混乱の中で、甘粕正彦大尉が率いる憲兵隊の手で殺害された。
大杉の妻・保子も翌1924年3月、持病の腎臓病のため死去した。市子はその後、女性運動の活動家として生き、戦後は衆院議員に。売春防止法成立に尽力したほか、死刑廃止運動などでも働いた。
政界を引退する前後の1969~1970年、彼女の名前がメディアをにぎわせたのは、日蔭茶屋事件を取り上げた吉田喜重監督の映画「エロス+虐殺」の公開をめぐってだった。
「プライバシーの侵害」として一般公開差し止めを求め、ついに損害賠償請求訴訟にまで。1970年10月9日付毎日朝刊の記事には「事件は半世紀前のこと。映画は、この不名誉な前歴を暴き出しており、人道主義的な社会活動家としての評価、名誉が著しく傷つけられた」という主張が載っている。
1976年に和解で決着。神近市子はその5年後の1981年8月1日、93歳で死去した。
「自由恋愛」が本当にあり得るのかどうかは分からないが、事件をめぐる大杉の態度は、結局男の側の論理だったと考えざるを得ない。「恋の敗者」だった神近市子は人生では「勝者」だったということかもしれないが、彼女にしても、半世紀前の事件であっても、映画で生身の俳優にかつての自分の“愚行”を演じられることは堪えられない苦痛だったのだろうか。それもまた人間らしいというべきか……。
【参考文献】
▽「風俗畫(画)報臨時増刊(江島鵠沼逗子金沢名所図絵)」 東陽堂 1898年
▽「日本近現代史辞典」 東洋経済新報社 1978年
▽大杉豊「日録・大杉栄伝」 社会評論社 2009年
▽大杉栄「自叙伝」 改造社 1923年