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勝海舟の妻が「夫と一緒の墓には入りたくない」と…死に際に残した「意外な遺言」の理由は

『近代おんな列伝』 #1

2023/06/22

source : ノンフィクション出版

genre : ライフ, 歴史

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 ペリー提督が黒船を率いて浦賀沖に現れるのは嘉永6(1853)年のこと。アメリカに武力をもって開国を迫られ、対応に苦慮した幕府は、この時、身分階級を問わず、広く意見書を集め、勝はこれに応募。すると、その意見書「海防論」が老中、阿部正弘の目に留まった。そこからさらに、海防掛で目付の大久保忠寛に取り立てられることになり、人生が拓けていく。

出世を果たし、女性関係に乱れが

 黒船来航後、江戸幕府はオランダ商館長に勧められ、長崎に海軍士官養成のための教育機関として海軍伝習所を開設し、勝は大抜擢されて赴任。現地ではオランダ軍人から船の操縦法を学んだ。オランダ語ができたため、オランダ人教官の通訳も兼ねていたという。製茶輸出貿易で巨万の富を得た女傑、大浦お慶の屋敷に出入りしたのは、この長崎時代である。

 長崎で5年を過ごし、江戸に戻るのだが、出世を果たした勝は、それに伴い女性関係が乱れていった。

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勝民子

 長崎では梶玖磨(お久)という年若い未亡人と関係して子どもも得たが、江戸に引き取り、お民に育てさせている。

 安政7(1860)年、幕府はアメリカに日米修好通商条約の批准書交換に幕府使節団を派遣することに。使節団長は新見正興、副使に村垣範正、目付に小栗忠順。彼らは正使として、アメリカ海軍のポーハタン号に乗ったが、護衛艦として咸臨丸が随行。こちらには軍艦奉行の木村喜毅と勝、それに福沢諭吉やジョン万次郎らが乗った。勝は初めて、「西洋」を目撃し、その文明に衝撃を受ける。

 帰国後、軍艦奉行となった勝は、神戸を国際貿易の拠点とするべきと主張。幕府から許可がおり、神戸海軍操練所を作り、私塾も始めた。塾には薩摩や土佐の脱藩浪人も受け入れたため、その後、この人脈が生かされることになる。

放埓を極めた女性遍歴

 戊辰戦争が起こり、幕府の敗色が濃くなると彼は幕府の代表者として、敵である官軍と向き合う。官軍側の大将となった西郷隆盛と、江戸城の無血開城を取り決める直接交渉を行ったのだ。

 なお、この無血開城には薩摩藩主の娘で将軍徳川家定に嫁いだ天璋院篤姫、同じく皇女で将軍徳川家茂の御台所となった和宮の果した役割の大きさを忘れてはならない。