1936(昭和11)年2月26日、陸軍の青年将校らがクーデターを画策して決起した。世に言う2・26事件である。このとき、約1500名の在京部隊が首相官邸や警視庁、政府首脳・重臣の邸宅などを襲撃し、大蔵大臣の高橋是清、内大臣の斎藤実、陸軍の教育総監の渡辺錠太郎らが殺害された。決起軍はこのあと帝都中枢を占拠。これを受けて事件発生の翌日、2月27日午前3時50分には、天皇の名のもと東京市内に戒厳令が施行された。いまから82年前のきょうのことだ。

建設中の新国会議事堂に入る決起軍 ©共同通信社

 2・26事件では、当時の首相・岡田啓介も官邸で殺害されたものと思われた。そのため、戒厳令発令と前後して、27日午前1時すぎには内閣総辞職が決定し、内務大臣の後藤文夫が臨時首相代理として各閣僚の辞表をとりまとめ、早朝に天皇に捧呈した。しかし、昭和天皇の意向で、後継内閣が成立するまで、後藤らが政務を担当することになる。

天皇の政治方針を決めるなど、重要な役割を果たした木戸幸一 ©文藝春秋

 青年将校たちのクーデター計画の最大の眼目は、岡田内閣の打倒だった。内大臣秘書官長の木戸幸一はそれを察知し、「現内閣の辞職を一切許さない」ことを天皇の政治方針として早々に決めた(筒井清忠編『昭和史講義――最新研究で見る戦争への道』ちくま新書)。昭和天皇が内閣総辞職の要請を保留とし、また陸軍大臣の川島義之や海軍軍令部総長の伏見宮博恭王からの新内閣樹立の提言(いずれも反乱軍側の働きかけによる)を拒んだのもこのためである。戒厳令も「兵力を用いて警戒する必要がある場合」の非常措置であり、反乱軍将校が望んだ「戒厳令による軍政府樹立」とは異なるものであった。天皇は、参謀次長の杉山元が戒厳司令部の編成を上奏した際、反乱軍に対し《徹底的に始末せよ、戒厳令を悪用することなかれ》と指示したという(勝田龍夫『重臣たちの昭和史 上』文藝春秋)。ここにクーデターの帰趨は決まったものの、反乱軍の鎮圧までにはなお3日を要した。

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岡田首相は生きていた。弔問客を装い脱出

 一時は死んだと思われた岡田首相だが、反乱軍は官邸に居合わせた義弟の松尾伝蔵(海軍大佐)を首相と思いこんで殺害しており、本人は無事だった。女中部屋の押し入れに隠れて一夜を明かした岡田は、27日、秘書官らの段取りで、官邸を訪れた弔問客にまぎれて脱出する。このとき付き添っていた協力者が、眼鏡とマスクで顔を隠した岡田に向かって《だから言わんこっちゃない。あれほど死体を見るなといっておいたのに、死に顔を見るものだから、気持が悪くなるんだ》と叱りつける芝居を打ち、出口に立っていた反乱軍歩哨の前を難なく通り過ぎることができたという(岡田啓介『岡田啓介回顧録』岡田貞寛編、中公文庫)。岡田は官邸を出るとすぐさま自動車に乗せられ、本郷の寺に連れて行かれると夕方まですごし、その夜は車の持ち主の家にかくまわれた。明くる28日、参内して天皇に拝謁した岡田は、《なにぶんの命あるまでその職をとるように》との沙汰を受けて復職(前掲書)、29日に事件が収拾したあと、3月9日、自らの手で内閣を総辞職する。なお、戒厳令は、反乱軍将校らの死刑(7月12日)直後の7月18日まで継続された。

事件当時の首相・岡田啓介 ©文藝春秋