今年は日中戦争の開戦から80年である。当時の日本はアジア最強の軍事大国であり、わずか半年足らずで、しかも国内や満洲などに余力を残しながら、北京、天津、上海、南京などを次々に占領した。「中国に完敗した」などといわれる今日では信じがたい、帝国日本の圧倒的な武威であった。

1937年7月9日付朝日新聞 日中戦争の火ぶたを切った「盧溝橋事件」の様子を伝える

伏字だらけにされた小説 石川達三『生きている兵隊』

 そんな時代を振り返るには、石川達三の『生きている兵隊』がもってこいである。芥川賞の第1号受賞者である石川が、1938年1月占領下の華中を訪問し、帰国後一気呵成に書き上げた小説で、『中央公論』同年3月号に掲載された。

 作中に登場する「西沢部隊」の移動ルートは、現実の歩兵第33連隊のそれとかなり一致していることが今日わかっている。「創作」と断ってあるものの、かなり綿密な取材があったことが窺われる。

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 そのうえで読み直すと、日本兵が中国人を惨殺する場面があまりに多く、よくこれを載せたものだとあらためて驚かされる。

「まるで気狂つたやうな癇高い叫びをあげながら平尾は……………あたりを…………………。他の兵も各々…………………………まくつた。ほとんど十秒と………………。……………平たい一枚の……………のやうになつてくたくたと……………、興奮した兵のほてつた顔に………………むつと温く流れてきた」(『出版警察報』第111号による)

石川達三 ©山川進治/文藝春秋

一般市民が戦場に適応していくリアリティー

 編集部の自主規制で多くの伏字がつけられたが、それでも前後を読むとただならぬ内容であることが伝わってくる。戦後の伏字復元版によると、ここは日本兵が中国人の女性を泣き声がうるさいとの理由でめった刺しにする場面だった。

 このため、『中央公論』の掲載号は「新聞紙法」により発禁処分にされた。それだけではなく、石川や、掲載時の同誌編集長・雨宮庸蔵は、同法違反で起訴され、執行猶予つきの有罪判決を受けた。

 とはいえ、『生きている兵隊』はたんなる反軍小説でもなかった。同作では、普通の一般市民が苛酷な戦場に投入され、徐々に適応していく姿が描かれている。それが軍事大国の独特のリアリティーだった。だからこそ、不完全ながらも当時掲載されたのだろう。

 単純な好戦でも反戦でもない。戦争をめぐってイデオロギーの空中戦がかまびすしい今日こそ、『生きている兵隊』は読み返す価値がある。

生きている兵隊 (中公文庫)

石川 達三(著)

中央公論新社
1999年7月1日 発売

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