日中戦争で日本軍が、中国国民党政府の首都・南京を占拠したのは、いまから80年前のきょう、1937(昭和12)年12月13日のことである。日中戦争はこの年7月7日の盧溝橋事件に端を発し、同月28日には北平(北京)への総攻撃が開始された。やがて華中の上海でも日中間の緊張が高まり、8月13日には第2次上海事変が始まる。華北で始まった「北支事変」が全面戦争に突入したことで、その名も「支那事変」と改められた(9月2日)。
国民党の蒋介石は、上海での戦闘を見越して入念に準備していた。おかげで日本軍は上海で苦戦し、多くの死傷者を出す。陸軍参謀本部はこれを打開するべく、華中に戦力を集中させ、敵主力に対し有効な打撃を与えることで、戦争の終結を図る方針を打ち出す。それまでの居留民の保護を優先する方針から、積極方針への大きな転換だった(筒井清忠編『昭和史講義――最新研究で見る戦争への道』ちくま新書)。11月5日には第10軍が杭州湾北岸に奇襲上陸し、中国軍を挟み撃ちにして、ようやく戦局を有利に展開し、11日に上海を制圧した。
このあと日本軍は、退却する中国軍を追って、上海からさらに内陸にある首都・南京へと侵攻するわけだが、これに対しては当初、軍内部で反対論も強かった。日本の兵力に余裕はなく、攻略は容易ではないと見られていたためだ。また、蒋介石は11月20日には南京より内陸の重慶に首都を移転すると発表しており、はたして南京攻略に意義があるのかどうかも疑問視された。だが、第10軍は15日にはすでに独断で南京をめざすと決定、これに上海派遣軍も動き出す。司令官の松井石根は前々から南京攻略論者であり、参謀次長の多田駿はこれを押さえようとしたが、押さえきれず、ついに28日、正式に南京攻略が決まる。
上海から南京まで300キロを日本軍は猛烈な勢いで進み、12月初めには20万の軍勢で市を包囲、総攻撃をかけた。日本軍の一部が城内に突入したところで、南京守備隊15万人は混乱のうちに退去、13日の陥落へといたる。この過程で、中国側の敗残兵や一般市民に対する大量殺戮、掠奪や婦女暴行が発生した(南京事件)。こうした行為に日本軍を走らせた原因には、激しい戦闘のあとの解放感と報復心理、また、不十分な補給のなかでの過酷な進軍のほか、南京を陥落させれば戦争は終わり帰国できるという心理があったとも指摘される(北岡伸一『日本の近代 第5巻 政党から軍部へ』中央公論新社)。
日本の多くの国民も、南京陥落で戦争が終わると期待していた。しかし、人々の望みに反して戦争は長期化する。日本政府は上海事変のさなかより、ドイツを介して和平工作を本格化させていたが、戦局が好転するにともない中国への要求を加重していった。これが中国側を躊躇させる結果となり、和平交渉は翌38年1月に打ち切られる。この間にも蒋介石は、奥地へ後退しながら戦線を広げ、日本に対し抗戦の姿勢を崩さなかった。南京占領は、日中戦争の泥沼化への始まりであったともいえる。