中国・北京の南西約20キロに位置する盧溝橋は、永定河(えいていが)にかかる石橋で、12世紀に完成した。この盧溝橋一帯で日本の支那駐屯軍(天津軍)第一連隊第三大隊第八中隊が演習中、実弾数発の射撃があったのは、いまから80年前のきょう、1937(昭和12)年7月7日夜のことだった。すぐ付近には中国国民政府の第29軍が常駐していた。このとき日本兵1名が行方不明(まもなく無事に発見)となり、事態は緊迫する。翌8日未明にふたたび銃声があったことから、牟田口廉也連隊長により攻撃命令が出され、午前5時半、日中両軍は交戦状態に突入する。いわゆる盧溝橋事件である(中国では「七・七事変」とも呼ばれる)。

 1931年に勃発した満州事変により中国の東北4省を占領した日本軍は、33年以降、中国北部の5省を国民政府の支配から切り離し、自国の勢力下に置くべく工作(華北分離工作)を進めていた。盧溝橋事件は、そうした日本側の動きに対し中国の抗日意識が高揚するなかで起こった。

北京近郊の盧溝橋付近で展開する日本軍部隊 ©共同通信社

 盧溝橋一帯での日中双方の攻撃は2時間程度で収束し、現地では9日に双方が撤退で合意、11日午後8時には停戦協定が成立する。しかしこれと前後して、時の近衛文麿内閣(第一次)は同日午後6時半、派兵命令を下していた。このため停戦したにもかかわらず、日中両軍はにらみあいを続け、7月末には本格的な戦闘となる。

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 じつは近衛内閣は、当初はこの事件について不拡大・早期解決の方針をとっていた。だが、陸軍の拡大派に抗しきれず、けっきょく派兵を決定する。その後8月には上海に戦火が拡大するにいたり、近衛内閣は「不拡大方針の抛棄(ほうき)」を決定、日中は全面戦争へと突入していった。局地的な衝突にすぎなかったはずの盧溝橋事件は、結果的に日中戦争の引き金となったのである。

盧溝橋事件から70年を迎えた2007年、北京市郊外の中国人民抗日戦争記念館で式典が行われた ©共同通信社