著者が取材と制作にあたった日本テレビ「NNNドキュメント 南京事件 兵士たちの遺言」が2015年に放送され大きな反響を呼んだ。ギャラクシー賞テレビ部門優秀賞をはじめ、たくさんの賞を受賞。その放送からこぼれた情報を含め、大幅な追加取材で書籍化した。

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「南京事件」を調査せよ

清水 潔(著)

文藝春秋
2016年8月25日 発売

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――清水 潔さんといえば、桶川ストーカー殺人事件の報道で捜査本部よりも先に犯人にたどり着いたことで知られ、「殺人事件」取材のプロというイメージがあります。今回、南京事件を取り上げたきっかけは何ですか?

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 いや、別にいつも殺人事件の取材ばかりやっているわけではないんですよ。テレビで報道の仕事をしていると、たとえば昨年は戦後70周年の節目番組を作らなければならない、という事情もあります。

「南京事件」とは1937年、日中戦争のさなかに日本軍が、当時の中国国民革命軍の首都・南京を攻略。その際に、多数の捕虜や民間人を虐殺し、強姦や放火、略奪までおこなったとされている事件です。このテーマを、調査報道のスタイルで取り上げることができないだろうか、と思ったのがきっかけです。少し調べてみたら、小野賢二さんという市井の研究者が27年間も調査を続けておられ、実際に南京攻略戦に従軍した兵士が現場で書いた従軍日誌(陣中日記)を、31冊もコツコツと集めていた。これは大変なことで、貴重な一次資料です。この遺された日記を中心に、裏付けや現場取材をして制作した番組が、「NNNドキュメント 南京事件 兵士たちの遺言」です。

小野賢二さんが集めた兵士の日記の一部

――日本テレビで放送されたのは深夜枠でしたが、直後から大変な反響だったそうですね。

 SNSを中心に、たくさんの意見が寄せられました。ほぼ9割が「よく放送してくれた」などの賛意を表するものでしたが、中には「南京事件って本当にあったんだ」という意見もあり、なかったと信じている若い人が多いことを実感しました。

 私自身、それほど戦史に詳しかったわけではないんです。最初に「南京事件」について調べ始めた時、その被害者数の振幅に、まずびっくりした。戦時中のことで正確な記録はそろっておらず、日中双方、政府や学者、一般人まで、自分が信じる根拠に基づく説を述べるわけです。それぞれが主張する人数が、数千人から数十万人まである。ふだんはひと一人の命は重い、と事件取材をしている感覚からすると、この振り幅は「何だこりゃ」です。おまけに「被害者数はほぼゼロ」という人までもいる。

 被害者がゼロとは、何もなかった、ということですよ。一部の本や新聞では「南京事件はなかった」と書いているんです。これはすごいことです。普通ならば事件が「あった」ところから話は始まりますよね。まさか「今日は、どこそこで火事がありませんでした。殺人事件がありませんでした」とは報じない。それを、なぜかわざわざ「なかった」と言うわけです。たとえば、アメリカ政府が「東京大空襲はなかった」と言い出したら? これは大変でしょう。

 それに加えて、「なかった」ことの証明は、実は一番むずかしい。「悪魔の証明」という有名な言葉がありますが、何かが「ある」ことを証明するには、確たる証拠を一つ示せばいい。ところが、「ない」ことを証明するには、示された証拠や可能性を、一つ一つすべて潰さなければならないからです。

 実際にあった話で、本にも書きましたが、ある事件の被疑者が「川のこの辺にピストルを捨てた」と供述した場合、捜査陣は現場だけでなく、下流のすべての流域、さらには海まで延々と底をさらい尽くさなければ、「ピストルは捨てられていない」ことの証明はできないのです。

――この本を書くために足かけ2年取材したそうですが、テーマは史実であっても、清水さんのアプローチは、あくまでも「調査報道」なのですね。

 ボブ・ディランの言葉ですが、「俺にとっては右派も左派もない あるのは真実か真実でないかということだけだ」。私の記者人生もまさにこの通りで、思想に興味は無い。「事実」に一歩でも近づくのが最大の目標です。だから、結論は「あった」でも「なかった」でもいいんですよ。しかし、そのどちらかを言うために、何をどこまで調べるか。

 人が一人死ぬと、その人生が断ち切られるだけでなく、家族や友人に言葉に尽くせないダメージを与え、未来も変えてしまう。一つの死が「なかった」という人は、そうした現実のすべてを否定することになるんです。「あるはずがない」とか、「あったはずだ」という言い方も、事実とは言えない。そして、「知らない」という人は一番無責任だと思います。本当は知ろうとしないだけ。知ろうとしないことは罪なのです。

清水潔(しみずきよし)

南京長江大橋のたもとで。

1958年、東京都生まれ。ジャーナリスト。
日本テレビ報道局記者・解説委員。
雑誌記者時代から事件・事故を中心に調査報道を展開。著書に『桶川ストーカー殺人事件――遺言』、『殺人犯はそこにいる――隠蔽された北関東連続幼女誘拐殺人事件』などがある。日本推理作家協会賞、新潮ドキュメント賞、日本民間放送連盟最優秀賞など受賞多数。本書で描かれている「南京事件」のドキュメンタリーで、ギャラクシー賞 テレビ部門優秀賞、「放送人グランプリ」2016準グランプリ、平和・協同ジャーナリスト基金賞奨励賞などを受賞した。