三浦瑠麗さんの北朝鮮スリーパーセル発言とそれに伴う騒動について、ここ一週間ほど考えていたことを書く。これは「私たちがどのようなメディアで、どのような情報源に基づいて民主主義を議論すればいいのか?」という重要な話である。
スリーパーセルという工作員が実際に存在するのかどうかについては、私は門外漢なので何の情報も持たない。ただ国連の北朝鮮制裁専門家パネルだった古川勝久さんにTOKYO FMの私の番組でうかがったお話からは、北朝鮮が世界のあらゆる場所にネットワークを張り巡らしていることには驚かされている。
また元警察担当記者としては、警察が公式な文書に記載しない情報を山ほど持っているのは当たり前の話で、部外秘で静かに眠っている情報はいくらでもある。公式に書かれていないから「存在しない」とは決して言えない。しかしそれを警察当局に当てても、「そんな情報はない」と一蹴するだけだ。
だからこういう話は、どこまで行っても水掛け論にしかならない。なのでいったん置いておくとして、問題にされているのは三浦さんが「ワイドナショー」という報道バラエティで発言したこと、またソースとして英タブロイド紙のデイリーメール(Daily Mail)を挙げたことの2点なのだと私は認識している。
1980年代後半以降、メディアの公共圏が変容
それについての良き論考としてこの記事を挙げておきたい。「リベラルは失敗から学んだのか-拉致問題と三浦瑠麗のスリーパーセル発言から考える議論の方法」は、公共の議論はどこでなされるべきなのかというメディアのゾーニングの問題を議論している。
この記事に沿ってメディア史を振り返れば、政治家や官僚、有識者(論壇)などの専門家にクリティカルな判断を任せ、国民は彼らに一任し、その両者をつなぐのがマスコミであるというのが20世紀的なメディアの構図だった。ここではゾーニングの問題は起きない。
ところが日本では1980年代後半以降、「市民目線」「庶民の視点」などが盛んに言われるようになり、久米宏さんに象徴されるニュースショーの登場やワイドショーの政治経済化によって、メディアの公共圏が変容した。
「専門家の手に任せておいていいのか」
以降のメディア空間では、あらゆることがオープンに求められるようになり、市民目線が理想とされてきた。公共的なゾーンは拡大し、クリティカルな情報でも「専門家の手に任せておいていいのか」と言われ、有識者会議や官僚の支配が批判された。その先に「御用学者呼ばわり」のような中傷も生じて来たと言えるだろう。
これは見方によっては「市民の勝利」であり、別の見方をすれば「公共圏の衆愚化」でもあった。