はじめまして。仙台市に本社のある新聞社、河北新報社の記者剣持です。

 東北楽天ゴールデンイーグルス担当記者になって通算3シーズン目。初めて担当記者になったのは2015年。その担当1年目の年に、とても気になる選手がいたのを覚えている。長く続くファーム暮らし、当時30歳の中堅が置かれている立場を考えれば、来季の契約は約束されていなかった。その選手はかつての先発3本柱の一人、永井怜投手。

 久々のファームでの登板後に声をかけると、初対面の記者に対し、にこやかに応じてくれた。同時に「やり返してやる」「このままでは終われない」というプライドに触れた気がした。当時の私の心境を思い返せば「永井の記事を出すことで球団幹部が来季構想外を思いとどまってくれないか」という淡い期待があったのかもしれない。結局、その年限りで引退した右腕。あれから8年がたとうとしている。

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永井怜 ©時事通信社

ファンにとっては大きな存在だった

 マウンドまで行って、汗だくの選手にタオルや水を手渡す。黎明期からのイーグルスファンであれば「ついにこの時が来たんだな」と感慨深くなるだろう。

 7月末から一軍担当になった永井怜投手コーチ。打診されたときは「まさか」と驚きを隠せなかった。首脳陣では最年少の38歳。重責を担う表情は常に引き締まっている。

 1軍と2軍。端的に言えば昼夜逆転の生活になる。ファームはとにかく朝が早い。午前5時台には起床し、6時半前には自宅を出る生活。当然夜も早く、1軍のナイターが終わる前に就寝することも珍しくない。今は遠征先の宿舎で、2軍の投手の映像を確認するなど、日中の空き時間を有効活用している。

 かつて、岩隈久志投手、田中将大投手との先発3本柱を形成し、2009年に球団初のクライマックスシリーズ(CS)進出に貢献した。「柱なんて思ったことはなかった。自分のことで必死だった」。現役最終年だった2015年秋、本人がそんなことを言っていたのを今でも思い出す。謙遜しているのだろうが、ファンにとっては大きな存在だった。

 引退を決断する1週間前、河北新報スポーツ面に「永井もがく 再び1軍登板へ黙々」という見出しの記事を掲載した。ファームで必死に汗をかき、2軍ですらなかなか登板機会を得られなくても腐らずに練習に取り組む姿勢。代名詞だったカーブをブルペンで投げる際、「これは八木山、これはスカイツリー」など、曲がり幅を地名や観光名所に例える遊び心も忘れなかったこと。「早く1軍に上がってね」とファンから声をかけられたこと。当時背負っていた背番号30の等身大の姿を1000字程度にまとめた原稿だった。

 後日、読者から「永井選手の記事が出ていてうれしいです。今季はなかなか1軍に呼ばれませんね」という内容の感想を頂いた。記事への反応に感謝するとともに、永井投手の偉大さに改めて気付いた。