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約160cmを越える大太刀を振るい、織田信長・徳川家康軍の追撃を防ぎ続けた…“猛将”を討ち取ったのは一体誰なのか

2023/08/11

source : 文藝出版局

genre : ニュース, 社会, 歴史

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 戦国小説集『化かしもの 戦国謀将奇譚』の著者・簔輪諒が、小説の舞台裏を戦国コラムで案内する連載の第2回です。(全7回の2回目/前回を読む

◆◆◆

 元亀元年(1570)6月、織田信長は同盟者である徳川家康と共に、近江(滋賀県)北部の浅井長政を攻めるべく軍を発した。

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 浅井方には、越前(福井県東部)の大名・朝倉氏が加勢。28日、長政の本拠・小谷城の南方を流れる姉川の河畔で、織田・徳川軍と浅井・朝倉軍は激突した。世にいう「姉川の戦い」だ。

――押しつ返しつ散々に入り乱れ、黒煙立て、鎬(しのぎ)を削り、鍔(つば)を割り

 と、『信長公記』にも記されたほどに激しい戦闘が続き、やがて、織田・徳川軍が勝利する。浅井・朝倉軍は総崩れとなったが、そんな中、踏みとどまって抗戦を続ける者がいた。

 その大柄な武者は、5尺3寸(約160cm)を超える長大な大太刀を振るい、四方八方に群がる敵を次々と斬り伏せた。

 彼の名は、真柄十郎左衛門直隆(まがらじゅうろうざえもんなおたか)。「北国無双の大力」と評された、朝倉家の猛将である。

©AFLO

敗勢の中で

 朝から始まった姉川の戦いは、一説には4時間ほどで勝敗が決したという。

 味方の浅井・朝倉勢が、雪崩(なだれ)を打ったように逃げ散る中、真柄十郎左衛門は大太刀を振るって、織田・徳川勢の追撃を斬り防ぎ続けた。

(……まさか、このような巡り合わせになろうとはな)

 返り血にまみれながら、真柄はふと、そんなことを考えたかもしれない。

 2年前、現将軍・足利義昭は越前で、朝倉氏の保護下にあった。

 義昭は、13代将軍・足利義輝の弟であり、河内(大阪府南東部)の大名・三好氏によって兄を殺され、己の命も危うくなったため京を逃れた。彼は、「再び京へ戻り、将軍に就任して幕府を再興する」という宿願のため、後ろ盾となる大名を探して諸国を流浪し、やがて越前の有力大名である朝倉義景を頼ったのであった。

『朝倉始末記』が伝える逸話によれば、あるとき、義景・義昭が列席した宴の場で、義昭の近臣の一人が、

「朝倉の御家中には、真柄十郎左衛門という大力無双の者がいると聞いておる。天下に隠れなきその力のほど、是非とも拝見したいものじゃ」

 と乞うてきた。真柄はこれを受けて、義昭らの御前に進み出ると、従者が数人掛かりでようやく担げるほどの、重く長大な大太刀を二振り用意し、それらを両手に握って軽々と振り回し、剣舞を披露してみせた。その場に居並ぶ者はみな驚嘆し、「四天や夜叉神(鬼神)といえども、これには勝るまい」と舌を巻いた。