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44歳で無理やり離縁させられ家康と再婚するも、4年後に死去…「人権無視」の兄・秀吉に翻弄された旭姫の悲劇

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genre : ライフ, 歴史, テレビ・ラジオ

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小牧長久手においても、秀吉軍は10万の軍勢(諸説あり)だったとされますが、家康方は1万超。10万は誇大としても、圧倒的な軍事力の差はあったのです。ところが、秀吉の「家康征伐」は中止されます。天正13年11月29日に、大地震(天正大地震)が発生。畿内も大きな被害を受けたのです。よって「家康討伐」どころではなくなった訳です。以後、秀吉は強硬策ではなく、融和策でもって、家康に臨むことになります。

その象徴というべきなのが、秀吉の妹・旭の家康への輿入れです。旭を家康に嫁がせることに関しては、『徳川実紀』(徳川幕府が編纂した徳川家の歴史書)に「関白(秀吉)、重て、信雄とはかられ」とありますので、秀吉は織田信雄と相談して決めたようです。

旭には夫がいたのに離縁させられ無理やり嫁がされたか

家康は、天正7年(1579)に、正室・築山殿を討って以来、新たに正室を迎えていませんでした。秀吉と信雄はそこに目を付け、秀吉の妹・旭を家康の正室にせんとしたのです。家康を親族にしてしまい、強引に臣従させようとしたとも言えましょうか。旭には、前述のように佐治日向守という夫がいました。しかし、家康に嫁がせるために、離縁させられてしまいます。『改正三河後風土記』(江戸時代に編纂された歴史書。偽書説もあり信頼できる史料ではない)には、この間の経緯を次のように記します。

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ある夜、秀吉は急に織田信雄らを呼び寄せます。そして「私は一計を思い付いた」というのです。秀吉が言う一計とは、家康を上洛させ臣従させるために、妹・旭を家康にめあわすというものでした。旭の夫・佐治日向守は「心厚き者なので、天下のために妻(旭)を返すべし」と言えば返すであろうと秀吉は言うのです。信雄らは、この秀吉の策に驚き、かつ感じ入ったといいます。秀吉の命令は、佐治に伝達されます。

佐治は「私がこの命令を拒んだならば、それは天下人民の苦しみを思わないのと同じ。しかし、妻を取り返されて、その後、どうして、他人に顔向けできようか」と言い、忽(たちま)ちのうちに自害してしまったと『改正三河後風土記』は記します(自害ではなく、出家説もあり。ちなみに、旭の夫は佐治ではなく、織田家臣・副田吉成ではないかという説もあります)。