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スマホが手離せぬ常時接続時代に抗して哲学者・谷川嘉浩が提唱する「純文学のすすめ」 後編

スマホが手離せぬ常時接続時代に抗して哲学者・谷川嘉浩が提唱する「純文学のすすめ」 後編

谷川嘉浩さんインタビュー#2

2024/02/11
note

『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる 答えを急がず立ち止まる力』『スマホ時代の哲学 失われた孤独をめぐる冒険』などの著作や研究・教育活動を通して、現代人の生きる道を探求しているのが哲学者の谷川嘉浩さんである。

 スマホやSNSにどっぷり浸かり思考が短絡・単純化している私たちに、そこから抜け出すための「考えるヒント」を指南してもらおう。

フィクション作品で、モヤモヤしながら自己対話するレッスンを

 

――常時接続時代の私たちには、ジワジワ長期的に味わうしみじみした楽しみが足りていない。これは納得がいくところです。ではなぜ、ジワジワくる楽しみが人には必要なのでしょうか。短期的な楽しみがいつも押し寄せてきてくれるなら、それで満たされ充足していていいような気もしますが。

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 谷川 そうですね、おそらく人の心の多様性を守るのに、ジワジワした楽しみが必要になってくるという気がします。

 人間の感情は本来、複雑で複合的なものです。一つの感情に染め上げられることは基本的になくて、たいていはうれしさと悲しさが入り混じっていたり、楽しい気持ちとストレスフルであることがいちどきに襲ってきたりする。

 友だちと過ごしていて楽しいのに、なんとなく早く帰りたい気持ちになるときってあるじゃないですか。または、家族の存在は優しくてありがたいと思っているけど、同時に面倒でもあって、あまり長い時間をいっしょに過ごしたくはないな思っていたりとか。人の感情はしばしば矛盾を含みますが、きっとそういう矛盾や陰影のある感情は、人間にとってはよくある心の状態なんです。

 インスタントなタイプの楽しさだけを持つ短期的娯楽は、その性質ゆえに単純な感情描写になりがちです。そうした表現ばかりを浴びていると、自分や他者の感情を語るボキャブラリーが、単純な感情を語る方に偏ってしまう。私たちは他人や自分の複雑さを語るボキャブラリーを豊かにするためにも、ちょっと退屈に感じるくらい、じわじわとしか楽しくないタイプの娯楽にも触れるべきなんだと思います。

 臨床心理士の東畑開人さんは、心を分けるところから始めようとくりかえし語っています。本音と建て前でも、無意識と意識でも、ポジティブとネガティブでもいい。心という言葉は、心が複数の要素に分けられてはじめて機能し始める。こんな心もある、こういう心だってあると分けていって、多様な心のありようを確認するためにも、気の長い娯楽は大切なんだと思います。