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高畑勲を失った宮崎駿は、どこへ向かうのか

サブカルスナイパー・小石輝の「サバイバルのための教養」

2018/05/20

 4月5日、スタジオジブリの高畑勲監督が肺がんのため、亡くなった(享年82)。5月15日に行われた「お別れの会」に出席し、高畑氏への取材経験もあるコラムニストの小石輝が、高畑氏と宮崎駿氏の55年間を振り返る。

高畑勲氏 ©文藝春秋

憔悴し、途方に暮れた様子の宮崎駿

 あんなに憔悴し、途方に暮れた様子の宮崎駿を見たのは初めてだった。5月15日に「三鷹の森ジブリ美術館」で行われた「高畑勲 お別れの会」でのことだ。

「迷路のように入り組んだ美術館の中に、どうやって人を入れるんだろう」と思っていたが、予想に違わず、招待された弔問客の大半は館外のテントで、モニター越しに会の様子を見守ることになった。

 たぶん宮崎駿は、大きな斎場で、見知らぬ人々と一緒に高畑勲を送ることが、どうしても我慢ならなかったのだ。自らの手がけた美術館の中で、少数の親しい人々だけと共に、高畑との「最後の別れの時」を過ごしたかったに違いない。そんな宮崎の思いを、いったい誰が責められるだろうか。

1990年11月、インタビューに答える高畑勲氏と宮崎駿氏 ©共同通信社

 宮崎の高畑を送る言葉は、その大半が、高畑の初演出作品「太陽の王子ホルスの大冒険」(1968年)にまつわる思い出だった。宮崎は当時、東映動画に入社したばかりの新人だったが、高畑や作画監督の大塚康生は、並外れた資質を見抜き、メーンスタッフの1人に抜擢した。宮崎は送る言葉でこう断言した。「僕はこの作品で、仕事を覚えたのだった」。

高畑勲は、共に働くスタッフたちの才能を活かしきる

 宮崎は「ホルス」を通じて、自らの抱いたイメージが画面の中で具現化し、縦横無尽に駆け回るという「アニメーションを作る快楽」を知った。そして、宮崎がその資質を十全に発揮できる「お膳立て」を整えたのが高畑だった。大塚も著書の中でこう書いている。「(ホルスの)制作過程でも、高畑さんは組合民主主義を体現していました。この映画に参加した私には、それまでのどの映画よりも、自分の持っている可能性が生かされたという喜びがありました。たぶん、全員に同じような感激があったと思います」。

©文藝春秋

 高畑のもっとも優れた資質のひとつが「共に働くスタッフたちの才能を活かしきる」ことだった。

 宮崎が高畑との思い出で真っ先に「ホルス」を挙げたのも、それが高畑との初仕事であったということ以上に、「アニメーターとして最初にして最高の快楽を味わわせてくれたのが、『ホルス』での高畑だったから」ではないか。

 高畑が監督・演出を担当し、その下で宮崎が思う存分アニメーターとしての腕を振るう、という仕事のパターンは「ホルス」以降も、「パンダコパンダ」(1972年)、「アルプスの少女ハイジ」(1974年)、「母をたずねて三千里」(1976年)と続いた。

 特に後者2作品の映像表現の素晴らしさ、作品としての深みは、週1回放映されるテレビアニメの枠をはるかに超えている。正直言って「これを見てしまうと、昨今のドラマや映画の大半が幼稚に見えてしまう」ほどだ。

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