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私が「星野大学」で学んだこと、私が星野仙一さんに伝えたかったこと

文春野球コラム ペナントレース2018

2018/06/23

【大山くまおからの推薦文】
 僕がどうしても星野仙一さんについて語っていただきたかった方に代打をお願いしました。1986年、星野監督と少女投手が大活躍して中日ドラゴンズが優勝する小説『勝利投手』を発表し、センセーションを巻き起こした梅田香子さんです。現在はスポーツライターとして活躍する梅田さんに、間近で見た星野さんの素顔について書いていただきました。

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 1987年1月、九州の串間キャンプではじめてフグを食べた。星野仙一監督は鍋奉行でフグの白子を器に取りながら、「これ食うと妊娠するぞ」なんて猥談ばかりだった。この手の話題は尽きないが、セクハラはなかった。女性キャスターの草分け、田丸美寿々さんがいい、とよく言っていた。好みというだけで、男女の仲だったわけではない。

「女とこじれそうになったら、石だよ。石(宝石のことらしい)を買ってやれ」

 と若手に説教していた。筆者は横で聞いていただけで、誰からも買ってもらった経験がない。筆者が10代後半だった頃、火の玉みたいな投手が好きで、「星野新聞」という手書きのミニコミ紙を作っていた。突然の出会いだった。星野さんはそれを面白がり、自宅に電話をくれた。

 まだ現役を引退してまもなく、「資金はだすぞ。本気でやってみなさい」と言われた。首相官邸の裏あたり、旧近衛邸と隣接した来栖邸は、3階建のビルに建て替えられたばかりで、星野さんの個人事務所は当時そこに置かれていた。

 星野夫人は慶応大学卒の知的な美女で、旧姓は来栖扶沙子さん。ヒトラーやルーズベルトと通訳なしで交渉した来栖三郎大使の孫にあたる。かつて五輪招聘や戦争回避に尽力し、敗れた祖父が遺した文書は、英語やドイツ語が多かった。吉田茂や近衛文麿との私信も英文がまじり、ゾルゲのメモも。

「ゾルゲて誰や?」「週刊文春で手塚治虫が『アドルフに告ぐ』を連載していて、出ていました」「ちょっと本屋で買ってきてくれ」。私がメモを訳すと、星野さんはこう言った。「これは俺が死ぬまで誰にも言うなよ」

 星野監督が生前、家族の写真を異常に嫌がったのは、これと無関係ではあるまい。

今年の1月に亡くなった星野仙一さん ©文藝春秋

星野さんのプロポーズ秘話

 川上哲治と星野監督とは蜜月の師弟関係だった。が、これも古の縁がある。

 戦時中、川上氏は立川航空学校の教官だった。来栖家の一人息子は米国シカゴ生まれのハーフだったので、しょっちゅう顔の形が変わるほど殴られた。川上少尉もその例外ではなく、来栖家では「職業野球のスターらしいが……」と恨まれていた。それでなくとも、官僚一家の娘が野球選手と結婚した実例がなく、星野さんは扶沙子さんにプロポーズしたものの、説得に時間がかかった。

「僕は川上監督の巨人軍を負かします」

 というセリフが決め手になったそうだ。

 ゴルフで接戦になると、星野さんは昔話をもちだし、「川上さんはどうしてこう、意地悪なんでしょうかね」「うー、いや、星野君、あれは本当に私が悪かった」という具合に、川上氏のパットを乱した。