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「僕は野球を二度なめたことがある」中日・荒木雅博、41歳の告白

文春野球コラム ペナントレース2018

2018/09/24

「春先、2軍の時に色んな曲を聴き返していたら、心に染みる曲があったんです。歌詞が今の自分にぴったりで」

 荒木雅博は優しい笑顔で教えてくれた。

「父には5年で駄目なら、熊本で就職しろと言われていました」

「足は速いが、非力な選手」というレッテル

 入団1年目の1996年9月。初めてナゴヤ球場で1軍の試合を見学した。

「ナイターも初めて。同期入団の益田(大介)さんがイニング合間にライトの(アロンゾ)パウエルとキャッチボールをしている姿しか覚えていません。1軍は別世界でした」と笑う。

 しかし、追い風が吹く。翌年、ナゴヤドームが誕生し、俊足の選手が必要となった。荒木は63試合に出場し、12盗塁。初安打、初打点も記録。高卒2年目としては上出来だった。

「意外と活躍できたと思いました。ただ、この考えがレギュラー獲得を遅らせたんです。正直、プロ野球をなめました」

 驚きだ。現に3年目は出場7試合。ヒットも盗塁もゼロだった。

「オフに星野(仙一)さんからスイッチヒッター転向を命じられ、目が覚めたんです。打撃も磨かなければ、このまま終わると」

 荒木は一心不乱にバットを振った。そして、4年目のヤクルト戦で左腕の石井弘寿から左でヒットを打つ。「スイッチなら右打席のはず。でも、その年は左1本で勝負しようと決めていましたから」と振り返る。

 しかし、そんな覚悟も報われない。結局、4年目のヒットはこの1本。5年目は2本。「足は速いが、非力な選手」というレッテルが体中に貼られていた。

 背水の6年目。オープン戦の序盤、水谷実雄コーチから驚愕の指示が出る。

「スイッチはもういい。右だけにしろと。もう言われるがまま。すると、忘れられないヒットが出たんです。西京極で巨人の入来(祐作)さんからツーベース」

 ここから荒木は加速した。オープン戦で4割3分5厘。1軍でも111試合3割3分8厘。ついにレギュラー奪取と思いきや、次の告白に耳を疑った。

「僕、またここでなめたんです」

 2002年に山田久志が監督就任。大胆なコンバートを行い、二遊間には井端弘和と荒木を起用。勢い良くポジションを掴んだかに見える。

「でも、成績を見て下さい。山田さんのお陰で試合には出させて頂きましたが、打率は2割そこそこ。本当のレギュラーではなく、出ているだけの普通のセカンド」

 2002年が2割5分9厘。2003年が2割3分7厘。盗塁はいずれも16個。物足りない数字だ。

通算2039安打のベテラン・荒木雅博

落合ノックという「禊」

「2度とやりたくないです。ただ、あれがなければ、今の僕はありません」

 2003年の秋季キャンプ。新監督・落合博満のノックの雨を浴びた。

「それまで中日の特守は約30分。ノック中、時計を見るんですが、30分経っても終わらない。1時間を過ぎても。この辺りから時計を見る余裕がなくなる。汗が出なくなる。思考も停止する。すると、不思議な現象が起きるんです。グラブの音がパンと高くなる。これは無駄のない動きで打球に入って、芯で捕っている証拠。もう動物の本能です」

 初めての感覚だった。

「技術も体力も向上しましたが、一番大きかったのは甘えを削ぎ落としたこと」

 落合ノックは禊だった。

「僕が野球をなめたのはBクラスの97年と2001年。つまり、弱いチームで出場機会を与えられただけなのに自分で掴んだと勘違いしたんです。野球に真摯に向き合い、レベルを上げ、勝敗を背負う。味方の選手、その家族、裏方さん、関わる人全ての生活を意識できてこそ真のレギュラー」

 中日は5年連続Bクラス。ベテランはゆっくりと口を開いた。

「いい若手はいますよ。目の色が変わってきた選手もいる」