エッセイ集『ナナメの夕暮れ』が早くも10万部を突破したオードリーの若林正恭。かねてより平野啓一郎さんのファンだったという若林さんが読み解く最新小説・『ある男』と『ある男』への願望、そして吐露される切なる願い。
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「ある男」になりたいと願うことが、ぼくにもある。
平野啓一郎さんが提唱されている分人主義には、随分と救ってもらった。
分人主義は“人間にはいくつもの顔がある”ということに肯定的だ。
例えば、主婦向けのお昼の情報番組に出演している自分、深夜ラジオで話をしている自分。
プライベートで高校の同級生と話をしている時の自分。芸人の先輩と飲んでいる時の自分。
それぞれ違っていいのだという考え方が、分人主義である。
テレビの収録で「本音が言えない」と悩んでいた時に分人主義を知って、「どれも本音といえば本音なのかもしれない」と気が楽になった。
「ある男」は、その分人主義の究極の作品だという印象を持った。
本文中に《人はなるほど、「おもいで」によって自分自身となる》という一文がある。
例えば、日常の会話の何気ない一言でさえ、人はその「おもいで」の影響を受けているのかもしれない。
冒頭、バーにいる主人公が名前も経歴も嘘をついていたことが判明する場面から始まる。
この作品には、事情があって戸籍を売買・交換して “自分ではない誰か”になった男が数人登場する。
人が名前も経歴も偽って、別の誰かになりたいと願う理由とは一体どういうものだろうか。
どの分人でもバランスが取れなくなった時、 “別の誰かの分人”を手に入れて、“自分”を取り戻そうとするのだろうか。
ぼくは、1人旅で海外に行くのが好きだ。
海外にいる時、外国人は当然誰もぼくのことを知らない。
海外で「ある男」=Xになることで、ぼくは空の色をいつもより青く感じられたり、スパゲティをいつもより美味しく食べられたりするのである。
1人旅ではない場合は、同行した人に対する分人を生きることになるので“X”にはなれない。
だから、ひとり旅でなければならないのだ。
“X”になることで自意識は縮小して、こんなぼくでも陽気に初対面の外国人に話しかけたりする。
そして、帰国の日が近づいてくると、東京という街の若林という人間に「ポジティブな部分もあるにはあるか」という想いがゆらりと立ち上ってくる。
帰国して空港で若林正恭に戻った時「またしばらくやってみるか」と重い腰を上げられるのである。
冒頭のバーの城戸という男も、城戸という体から一瞬でも抜けることで、楽になりたかったのではないだろうか。
ぼくも城戸も中年である。
中年になると、“おもいで”の量は増え、可能性の幅は狭くなる。
若い時は、その可能性の幅の広さに逆にやられそうになったことがある。
中年になると、狭くなった幅で生きていくことに退屈を感じてしまって、今自分が手にしている“幸せ”すらうっかり見落としてしまうことがある。
苦しみにはなかなか慣れないのに、なぜ人は幸せにはいとも簡単に慣れてしまうのだろうか。
城戸は自分以外の人間になることで、自分が手にしている“見落としがちな幸福”を相対化して再認識したかったのかもしれない。