文春オンライン

「当たり前のことができない。選手継続1年目が一番つらかった」――大宮アルディージャ塚本泰史、がんを語る #1

塚本泰史インタビュー #1

2018/10/16
note

選手契約を継続した2011年が一番つらかった

──アンバサダーの活動でも2012年の東京マラソン完走を皮切りに、富士登山や大宮から自転車で仙台や佐賀までを走破するなど、毎年過酷な挑戦を続けてこられました。もうやめたいと思ったことはなかったですか。

塚本 ありましたよ(笑)。終わった後、選手契約を継続してもらった2011年が一番つらかったですね。今まで当たり前にできていたことがまったくできなくて……。一応選手なのでトレーナーがついてくれたのですが、僕につきっきりというわけにもいかないので、他の選手を見ている間は「なんでできないんだ」「なんでこんなことしてるんだろう」と自問自答しながらひとりでトレーニングする。でも、いつになったら普通に歩けるのかも見えない状態で……。悔しくて涙を流したこともありました。

 

──それでも諦めずにトレーニングを続けてきたのはなぜですか。

ADVERTISEMENT

塚本 多くの方に応援してもらったことが大きな励みになりました。がんになるまで、僕は本当にサッカーしかしてこなかったので、病気になって初めて人の優しさとかあたたかさを知ることができました。いろんな人に支えられて生きているんだというのをすごく実感できましたし、みんなの応援がなかったら、前向きにもなれず、手術も治療も乗り超えられなかったと思います。家族も忙しいのに毎日お見舞いに来てくれて、すごく支えになりました。家族には感謝の気持ちしかないです。

2010年3月7日、手術を3日後に控えた開幕戦で涙する塚本(写真中央) 提供:大宮アルディージャ

人工関節は横向きの動きに弱い

──退院後、初めてボールを蹴った時は、どんな気持ちでしたか?

 

塚本 なにをもって「蹴った」と言えるのか説明しづらいんですけど、退院後初めてボールを蹴った時は、足が持っていかれるような感覚で、これは無理だと思いました。人工関節は、普通に人間が歩く運動を想定しているため、前を向いた状態で膝を曲げる動きには強いんですけど、横向きの動きには弱いんですよ。だから初めてインサイドでボールを蹴った時に、ボールに足を持っていかれて、怖いと思いました。

──それは事前にはわからないことですよね……。

塚本 そもそも、人工関節でボールを蹴ろうとした人がいなかったので、病院側も「いつリフティングができます」とか「インサイドでボールが蹴られるようになるにはあとどのくらい」とか言えないですよね。でも、1メートルしか転がらなかったパスが2メートルになったり、1回しかできなかったリフティングが10回できるようになったり、ちょっとずつ自分で成長しているのがわかったので、あとは怖いという気持ちをどう取り払うかというところでした。