こんなに奇妙な光景もまたとない。仰向けに置かれた男性用小便器が、ガラスケースに覆われ鎮座している。それを人々が取り囲み、大真面目な顔してまじまじと眺め入っている……。
「マルセル・デュシャンと日本美術」展の一角で繰り広げられているひとコマだ。
人がそう見なしたものが、アート
何の変哲もないこの便器、20世紀の美術史に燦然と名を残すフランス人アーティスト、マルセル・デュシャンのれっきとした作品で、《泉》という冗談とも本気ともつかぬタイトルが付されている。アーティスト本人がデザインしたわけでもない、すでに世にある既成品を転用したこうした作品は、「レディメイド」と呼ばれる。
《泉》はたいへん著名なだけではなく、ときに現代アートの起点と呼ばれることすらある。実際に対面すれば本当にただの便器にサインがしてあるだけで、
「こんなのがもてはやされるなんて、やっぱり現代アートって訳がわからない」
と思われても致し方ない。
この《泉》、いったいどう観ればいいのか。何がそんなに高く評価されるのか。作者が意図したのは、このようなことだ。
マルセル・デュシャンは20世紀初頭から、ペインティングを描くなどアーティストとしての活動をしてきたが、いつしか頭の中をひとつの大きな疑問が占めることとなった。
人はやたら、「アート」や「作品」といったものを求め、ちやほやする。でも、その正体ってなんだろう。目で見て美しいもの? 創造的なもの? アーティストという存在は本当に、美や創造を司っているんだろうか。そんなに特別な存在なのか?
デュシャンという人物は、自明とされることをそのまま信じるような性質ではなかったのだ。アートに関わるならば、アートの根源や成立の条件まで考えなければ気が済まなかった。
そこで彼は、芸術ではないような作品をつくることができるだろうか、という問いを立てて、試行錯誤する。思案のすえ、《自転車の車輪》という作品が生まれた。
台所用腰掛けの上に、一個の車輪が固定してあるという、まさに訳のわからないオブジェだ。え、これがアートなの? というのが、観た者の正直な感想だろう。
この作品は、今回の展覧会にも出品されている。会場に恭しく展示されていれば、「ああ、アートなんだな、これ」と、なんとなく思ってしまったりする。そんな心の働きこそ、デュシャンが追求したかったもの。彼は《自転車の車輪》によって、次のような新しいアートの定義を打ち立てたといえる。
人がそう見なせば、それがアートである、と。