10月15日、セ・リーグクライマックスシリーズ(CS)第3戦は、実に色々なことを考えさせられる名勝負だった。もちろん、「ヤクルト対巨人」の一戦ではない。ヤクルトは前日の14日に2連敗を喫して、早々にCS敗退を決めていた。では何のことか? 文春野球である。横浜・高森勇旗監督の「田代富雄が横浜に帰ってくることが、なぜこんなに嬉しいのか」は、元選手であり、田代さんのことを尊敬している高森さんにしか書けないコラムだった。これを読んで僕も、「愚痴の酒は飲まない。明日の酒を飲む」と心に誓った。
広島・杉作J太郎監督のコラムを読んで……
そして、広島・杉作J太郎監督の「カープファンは他のチームのファンからどう思われているのだろうか」を読んだ。冒頭で「今回、このタイミングで。書くべきことかどうか考えたが、やはり書くべきだろうと思った」と逡巡しているように、文章全体に杉作さんの迷いや葛藤がにじみ出ていた考えさせられるコラムだった。
一読して、「相当、いろいろなことに気を遣って書かれた文章だな」と思った。ネットでの反応を見ると、「奥歯にモノが挟まったような言い方」「何が言いたいのかわからない」「全方向に気を遣いすぎて物足りない」というネガティブな反応がある一方で、「この時期によくぞ言ってくれた」「杉作さんらしい味わい深い文章だ」という意見も数多くあった。
では、僕自身はどう思ったのかと言うと、上記のネットの反応同様、両方の感想を抱いた。同じ「書き手」として見れば、杉作さんの思慮深い筆致に「さすがだな」と思う一方で、核心に触れない(触れられない)及び腰の姿勢も感じた。しかし、コラム冒頭で、「それが書けるのは文春野球カープ監督という立ち位置を任せてもらっている自分にしかできないと思った」と杉作さんが書いているように、その「覚悟」には率直に感銘を受けた。
正直言えば、今このタイミングでこの話題に触れたくなかったはずだ。しかし、それでも書かなければならないと思った杉作さんの書き手としての意地に、僕は感応した。かつて杉作さんが出版した『ヤボテンとマシュマロ』という名著の熱心な読者だった僕としては、あの杉作さんが決意を持って、「他のチームのファンからどう思われているのだろうか」と問うのならば、「他のチームのファン」の一人として、そして杉作さん同様、「文春野球スワローズ監督という立ち位置を任せてもらっている」身として、きちんと返答しなければいけないだろう。そう考えて、僕もまたこうしてキーボードを叩いている。正直言えば、あまり気乗りはしない。本音を言えば、希望あふれる原樹理のことを書きたかった(笑)。
他人のゴミを拾い続ける“Fさん”のこと
昨年、そして今年と「スワローズ応援パック」という年間チケットを購入した。これは神宮球場での主催全試合の外野指定席がセットになっているもので、これを買っておけばチケット争奪戦に加わることなく、毎回同じ席で試合が見られるのだ。僕の周りにも、「応援パック」を購入した方が何人もいた。当然のことながら、毎試合同じ席となることで、次第に会話を交わすようになり、気づけば「ご近所さん」のような間柄となっていた。
仮にFさんとしよう。通路を挟んで、僕の隣に座っていたFさんも「応援パック」購入者だった。小学生の男の子の父親であり、僕と同世代でもあり、ファン歴も長い彼は、いつも熱心にヤクルトを応援していた。試合に勝っても、負けても、常に笑顔のとても気持ちのいい人だった。そして、試合後には、持参していた大型のゴミ袋を片手に、自分とは無関係の観客が残していったゴミを必ず拾い続けていた。
もちろん僕だって、自分の出したゴミはきちんとゴミ箱に片づけてはいたけれど、見知らぬ他人が残していったゴミの山はスルーしていた。でも、Fさんは、神宮開幕戦から最終戦まで、いつもゴミ拾いをしていたのだ。彼の姿を見ていて、「ヤクルトファンのマナーは最高だな」と思った。しかし、すぐに気がついた。「ゴミを置いていく人もまたヤクルトファンなのだ」ということに。そして、僕のように「ゴミの山を見て見ぬふりをする人間もヤクルトファンなのだ」ということに。
もちろん、たまたまこの日のチケットが手に入って、屋外での野球とビールを楽しむために訪れただけで、元々は野球に興味ない人たちなのかもしれない。けれども、ヤクルトのレプリカユニフォームを着た集団が、騒ぐだけ騒いでゴミを散らかしたまま帰っていく光景を目の当たりにしたことも何度かある。「全員」とは言わないけれど、「ヤクルトファンは絶対にそんなことはしない」とは言えないのも現実だろう。
今回、杉作さんの原稿を読んで、僕は黙々とゴミを拾い続けるFさんと、それとは対照的にゴミを散らかしたまま帰っていく集団のことを思い出した。そしてそれは、「ヤクルトファンといってもいろいろな人がいる」という事実。そして「ゴミを置きっ放しにする人はごく一部にしか過ぎないのだ」というシンプルな結論を得た。同様に、自身のコラム内で「一部の過激な、過剰なファン」と語っているように、杉作さん自身も、「そうではない大多数」の存在を自覚した上で、あのコラムを書いたことを再認識した。
大多数の善良なファンがいる一方で、少数の過激なファンが目立ってしまうのは事実だ。冷静なサイレントマジョリティーは決して表に出ることはなく、一部のモンスターたちが目立ってしまうのは、何も野球ファンだけに見られる現象ではない。一部のクレーマーの声が決して、多数の意思を表明しているわけではないように、杉作さんの言う「一部の過激な、過剰なファン」の言動がたまたま目立ってしまうために、こうした不調和がことさら強調されてしまうのも理解できる。