CSふぁーすとすてーじがおわった。
だれもが、そのさきをめざしたたかい、96ぱいからのぎゃくしゅうをねらっていた。あいては、じゃいあんつ。しーずんのたいせんせいせきも、ぶがよく、ちーむも、9がつから、ちょうしがよく、しょせんのらいあんで、せんてをとり、つぎの、はらじゅりでかつと、かってにきめていた。
さいごまでつれていけなかったくやしさ
たたかいなれたじんぐうでは、たくさんの、すわろーずふぁんが、いっしょにたたかってくれた。こころづよいばっくをせに、たたかうおとこたちに、ぬかりはなかった。
だけど、1せんめまさかのはいたい。じまんのだせんが、きのうしなかった。じゃいあんつのぴっちゃーのけいとうのまえに、4あんだ10さんしん。1てんとることしかできなかった。がけっぷちの2せんめ、じゃいあんつの、ぜったいえーす、すがのくんのまえに、のーひっとのーらん。ここいちばんのじゃいあんつのつよさは、ほんものでした。
しあいご、ちーむのみんなと、すたんどのみんなへ、あいさつにいきました。つばくろうのみた、そのすたんどのこうけいに、めからあせが。
きろくてきたいはい、じゃいあんつのひーろーいんたびゅーがあって、じかんがたっていたのにもかかわらず、すたんどのすわろーずふぁんは、ほとんどかえっていませんでした。ふつうなら、そんなところみたくないはずなのに、せいれつ、あいさつするじゃいあんつのみんなをまち、すがのくんのひーろーいんたびゅーを、きいてる。なかなかできることではありません。
せれもにーご、がいやのみんなにいちれいして、いつものないやへのあいさつ。すたんどからは、あたたかいはくしゅと、せいえんがなりやまなかった。そのご、せんしゅは、べんちからにもつをもって、ぐらんどからくらぶはうすへ。うつむくせんしゅに、みんなのはげましのこうけいが、あったかすぎて、たまんなかった。うちのせんしゅは、ぶきようなところがあるから、こんなとき、どうかえしていいのかわからない。ただうなずくのがせいいっぱいにみえた。
みんなをみおくってから、あらためて、すたんどをみて……
『96ぱい』のきょねんもそうだった。ふぁんのみんなは、さいごのさいごのしあいまで、たとえ、どんなたいはいしてたしあいでもさいごまで、せいえんをおくってくれた。しょうかじあいといわれてるしあいでも、らいとすたんどは、いつもみんながいた。
そしてことし、なかなかけっかがでないときも、みんながいた。
しあいで、でっどぼーるをもらったぜんはん、つばくろうのぶろぐをみただけではないとおもいますが、かんせんまなーのよさに、みんなのことをほこらしくおもえた。ますこっとえんせいで、ほかのきゅうじょうにいったときも、みんなのえがおに、びじたーのかんかくをわすれそうなくらい、たのしくすごせた。
こうりゅうせんくらいから、ちーむもしゃっきんへんさいにむけ、かちがふえて、じんぐうでのかんせんえりあも、らいとだけでは、おさまりきれず、れふとがわまでふえていった。とくてんをとると、かさのはながひらくので、そのこうけいですぐにわかる。ちーむのみんなも、じょじょにふえるみんなのせいえんにきづき、それをかたちにと、かちをふやし、ちょきんをつくり、ふやしていった。
ひーろーいんたびゅーでは、みんなくちをそろえて、みんなのせいえんが、ちからになっているというのが、あたりまえになっていた。まけそうなしあいでも、ぎゃくてんするいちばんのよういんは、みんなのちからだと、ちーむのみんなはかんじています。
そのためにも、ひとつでもおおく、みんなといっしょにしあいをすること。CSふぁーすとすてーじとっぱ、ふぁいなるしんしゅつ、そして、にほんしりーずで、また、みんなとあうことが、もくひょうでした。