今年の2月25日に行われた東京マラソンで、設楽悠太が日本記録を更新してから、わずか7カ月半。10月7日にアメリカで行われたシカゴマラソンで、大迫傑(ナイキ・オレゴン・プロジェクト)が2時間5分50秒をマークし、日本記録をさらに更新した。
「(日本新は)出るとしかいいようがなかったですね」。日本人初となる5分台の快挙を、当然と見ていた人物がいる。設楽が日本記録を樹立した際にも、その活躍を確信していた駅伝好き集団「EKIDEN News」主宰の西本武司さんだ。なぜ大迫の日本記録を、これほどまでに確信していたのか。長年、見続けてきたからこそのマニアックな視点で、勝利への3つのポイントをあげてもらった。
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今回、我々EKIDEN Newsの間では「シカゴは大迫傑が日本記録を出すとしかいいようがない」と確信のようなものがありました。また、こういう言い方すると、「あとでならいくらでもいえる」とツッコミが入るのですが、人見知りで外国が苦手なあの駅伝マニアさん(「EKIDEN News」の中心メンバー)が「出雲駅伝はもう青学で間違いないでしょう。今回は出雲をスルーしてシカゴに行きます」と手を挙げたほどの確信です。往復の旅費はもちろん自腹。シカゴマラソンへのプレス申請も受領され、ぼくだって大迫の日本新記録を目の前で見たかった。ただ、出雲駅伝はシカゴマラソンの翌日。「シカゴー出雲」直行便などはあるはずもなく、ここでEKIDEN News全員がシカゴに行ったら、出雲駅伝に全く触れないEKIDEN Newsになってしまう。ぼくは主宰者として、山縣亮太選手の100m日本記録更新がかかっていた国体の会場・福井から、ひとりひっそりと出雲に向かいました。
理由1「とにかく“負けず嫌い”な性格」
大迫選手は記録よりも勝つことを目的とした人です。「日本記録更新を狙います」と言う選手もいますが、大迫にとっては記録よりも勝つことが大事。その「負けず嫌い」な性格が、日本記録更新を確信していた1つ目の理由です。
大迫選手のこれまでを振り返ってみると、より強くなれるために環境を選んできたことがわかります。そのテーマは一貫して「自分より強い人がいるところ」。常に自分より強い人に戦いを挑み続けていきながら、自らを高めてきたことがわかります。
その原点は中学時代にまで遡ります。入学当初、通っていた中学校の陸上部が顧問不在で活動休止状態であったため、大迫少年は、陸上を練習する環境をもとめて江戸川陸上競技場を本拠地とする「清新JAC」という強豪クラブチームを選びます。自宅のあった町田から江戸川まで片道1時間以上かけて3年間、週2回通ったそうです(後に顧問が赴任し、中学校とクラブチームで練習をこなす)。週2回のクラブの日がポイント練習。それ以外の日は町田市立野津田陸上競技場でひとりストップウォッチをもちインターバル走を繰り返す大迫少年を遠くから見ていた人がいました。青山学院大学駅伝部監督に赴任して間もない原晋監督です。青学が自前のグラウンドをもつまでは、この野津田陸上競技場が青学の練習場所でありました。
清新JACのホームページには当時の記録が残ってます。3000mで東京都中学校最高記録 8分41秒59をマークをした大迫選手。当時からぶっちぎりの強さを発揮してたかと思いきや、このクラブチームではずっと1番になれていないんです。2006年の全中3000mで大迫選手は3位に入ります。これはすごい成績ですが、2位には同じクラブチームの山野友也選手がいます。中学時代、大迫選手の前には同じクラブの山野選手が常に立ちはだかるのです。この山野選手、この年の全中1500mでも優勝、翌年の都道府県駅伝東京代表となります。ちなみに、山野選手は仙台育英高校を経て、大迫選手とは後に早稲田大学競走部で出会うことになります。