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植物の研究に没頭する女子と、洋食屋見習い男子の恋の行方

深澤真紀が『愛なき世界』(三浦しをん 著)を読む

2018/11/15
『愛なき世界』(三浦しをん 著)

 まず、藤丸陽太が見習いとして働く本郷の洋食屋「円服亭」がすばらしい。洋食だけではなくラーメンや煮魚定食まであり、手頃な値段なのにおいしい。床は飴色に磨き上げられ、木枠の窓からは光が差し込む。一人で読書しながら食事をとる客もいれば、老夫婦がお互いの料理を分け合う姿もある。

 その円服亭に出前を頼むようになるのが、T大学理学部の松田研究室だ。植物学を研究するその室内もまたうつくしい。サトイモの葉のように巨大なものや、蘭やら野菊のようなものであふれ、光と緑に満ちたあたたかな部屋なのだ。シロイヌナズナの葉の細胞や遺伝子を研究する博士課程の院生で、いつも変なTシャツを着ている本村紗英は、植物の不思議さとうつくしさを藤丸に語って聞かせる。

 門外漢ではありながらも、野菜を切るときにその断面や葉脈に見入り、「生き物の命を食べるという、死と生をつなぐ行為だから、料理が好きなのだ」と思っている藤丸は、本村が大事にするその価値観を、理解していくようになり、本村への恋心を抱く。やがて藤丸は、本村の研究上のトラブルに対して、本質的なアドバイスを与える存在になっていく。

愛なき世界』というタイトルは、「愛のない世界を生きる植物の研究に、すべてを捧げる」と決めている本村の植物への情熱を指している。私がかつて「草食男子」と名付けたとき、「恋愛やセックスだけを重視せず、ほかの価値観も大事にする若者」という意味を込めたのだが、「情けない若者」を叩くために使われるようになってしまった。この物語にはそういった、男女が婚姻をして子どもを作ることだけが「生産性」なのだとか、「今すぐに役立つ研究こそが重要だ」などという、「合理性」に見せかけた貧しい価値観はない。

「知りたい」という気持ちをもつことは、人に対してであれ、植物に対してであれ、愛にあふれているものなのだ。

みうらしをん/1976年、東京都生まれ。2000年『格闘する者に○』でデビュー。06年『まほろ駅前多田便利軒』で直木賞、12年『舟を編む』で本屋大賞を受賞。『風が強く吹いている』『ののはな通信』など著書多数。
 

ふかさわまき/獨協大学特任教授・コラムニスト。著書に『女オンチ。』、津村記久子との対談集『ダメをみがく』などがある。

愛なき世界 (単行本)

三浦 しをん(著)

中央公論新社
2018年9月7日 発売

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