「あまから手帖」といえば関西のグルメ雑誌の老舗で、舌の肥えた読者で知られる。その編集長が教える京都の楽しみ方。しかも今回は和食だけじゃない、京都にあるほんとうに美味しい店をご紹介。第4回はカクテルやワインと一緒に楽しめる、京都ならではの洋食の名店を紹介。
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京都の洋食はここから始まった
今年は神戸開港150周年のアニバーサリーイヤーだ。関西に洋食が伝わったのは、おそらくこの1868年の開港時からで、神戸にはゴルフもコーヒーも映画も、この頃、海の向こうからやって来た。そして独自の港町文化が作られていくワケだが、1868年といえば明治元年。京都は御一新で、それどころではなかったに違いない。なんせ天皇が京を離れ、江戸に行ってしまわれたのだから。御所御用達の商いはどうなる? と、そんな時期に、西洋からやってきた食べ物のことなんか構ってられますかいな、というワケで。
京都に初めて西洋料理店ができたのは、明治も末期になった頃。明治37(1904)年、『萬養軒』が麩屋町通錦小路上ルに開店。谷崎潤一郎は『朱雀日記』にこう記している。「案内されたのは、麩屋町の仏国料理萬養軒と云ふ洋食屋である。近来京都の洋食は一時に発達して、カツフエ・パウリスタの支店までが出来たさうな。此処の家もつい此の頃、医者の住居を其れらしく直して開業したのだが、中々評判がいゝと云ふ。」
さすが京都と思うのは、この店が現役であること。今は、『ぎをん萬養軒』として、洋食というより、クラシカルなフレンチを供している。
大正期になると、京都の洋食はいよいよ独自の路線を進み始める。そのベクトルは、大きく分けて二つあると私は思う。一つは、舞妓さん好みの洋食。代表格としては、大正5(1915)年創業の、これまた現役、先斗町『開陽亭』。舞妓さんのおちょぼ口でも食べられるようにと海老フライやカツレツなどを一口サイズにして三段重ねの弁当箱で供したのが、名物「洋食弁当」だ。現在は「三段赤弁当」として健在で、みたらし団子のタレをヒントに生まれたテリヤキソースを使う牛フィレの照り焼きや、海鮮フライに各種カツが入って2800円。“大人のお子様ランチ”的愉しみがあり、私も時折食べに行く。
京都初のニッカバーは洋食屋だった!?
もう一つのベクトルは、飲める洋食。今回、私が推すのは、このジャンルだ。その元祖が、大正期に創業し、後に京都初のニッカバーとなった木屋町四条の『一養軒』。
木屋町通から露地に入ったどん突き。20席ほどの小さな空間には、歳月を重ねた店だけが持つ気配のようなものが満ちていて、カウンターの古傷をなでなで飲むニッカのハイボールは、実にふくよかな味がする。エビコロッケ……もとい、この店ではエビコロッキー、自家製マヨネーズがリッチなメキシカンサラダなどを盛り合わせたオードブルをアテに1、2杯。
チキンオムレツは、鶏のこま切れと粗みじん切りの玉葱がゴロゴロ入っていて、飾り気のない味だが、オカンの作る洋食みたいで沁みる。初めて訪れた夜、御年66歳の店主・矢野保夫さんに聞いたのだが、矢野さんの母と妹が2階の厨房で作ってるのだそう。ローストビーフ(一養軒風)がまたいい。ホンマに焼いた牛肉が出て来るのだが、コレ、ビフテキちゃうのん? なんて野暮は言いっこなし。懐かしくも、しみじみ旨いデミグラスが、ハイボールにも、寂びたバーの雰囲気にも似合っていて、杯を重ねていくと、泣けるほどの郷愁が身体を突き抜けていく。
洋食をアテに飲む。私がその愉しさを知ったのは、河原町御池の『タバーン・シンプソン』だった。昭和50(1975)年創業の大人の社交場的バーで、昭和の映画に出てきそうなレトロモダンな雰囲気に圧倒された。京都在住の先輩に連れられ、薦められるがままに食べた。「ココのフライドチキンは抜群やで」「タンシチュー、これは外されへん」「名物のオマール海老のパイ包みも食べときよし」。いやはや、目から鱗がぼろぼろ落ちた。なんだ、この上品で、深みのある味わいの連打は!
タンシチューのタンのブリンッと弾力があるのに柔かい具合とか、デミグラスソースの奥行きのある旨みとかに一々唸りながら、白飯でなくカクテルと合わせるなんて……大人やわぁ、と酒飲みの階段を一つ上がった夜だった。あれからもう10年が経つが、以来、この界隈で洋食気分になったらば『タバーン・シンプソン』の扉を押す。