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楠木 建
2017/01/31

「良し悪し族」が蔓延する社会はアブナイ

楠木建の「好き」と「嫌い」――好き:好き嫌い 嫌い:良し悪し

 毎回極私的な「好き」と「嫌い」を対にして取り上げ、それを題材に手前勝手な話をする。

 好き嫌いとは何か。この手のわりと抽象的なことを考えるときは、それが「何か」よりも「何ではないか」をはっきりさせるとすっきりする。好き嫌いとは「良し悪し」では割り切れないものの総称である。良し悪しでないものが好き嫌い、好き嫌いでないものが良し悪し、ということだ。

 今回は一発目なので、僕にとっていちばん重要な「好き」から始めよう。それは「好き嫌い」である。話がややこしく聞こえるかもしれないが、「好き嫌い」が好きで「良し悪し」が嫌い、これが僕の好き嫌いの一丁目一番地である。

 「好き嫌い」と「良し悪し」の違い

 好き嫌いと良し悪しはいずれも何らかの価値(観)をとらえている。ただし、この2つは普遍性という連続軸の上で対照的な位置関係にある。

 例えば、「民主主義」や「言論の自由」。国や社会によって例外はあるにせよ、この百年ほどはわりと普遍的な価値観になっている。個人的な好き嫌いを超えたところにある良し悪し、もっといえば善悪の問題だ。これを「文明」という。

 こうした普遍的な価値観を個別的な方向に寄せていくと、「文化」になる。文化は本来的にローカルなものだ。ある境界の内部では良し悪しとして共有された価値になっている。しかし、境界を越えて外に出てしまうともはや良し悪しとしては通用しない。例によって司馬遼太郎がうまいことを言っている。「文化というのは一定範囲の人々の間で受け入れられているもので、その中にいる人にとっては心地いいもの」。

 文化をさらに個別の方向に寄せ切った先に、個人の好き嫌いがある。好き嫌いとは「特定個人のレベルまで局所化された良し悪し」を意味している。良し悪しと好き嫌いは対照的だが連続している。

「良し悪し」は氷山の一角

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 良し悪しと好き嫌いの連続性は、氷山に喩えるとわかりやすい。海の上に出ている見える部分が良し悪しである。ここについては相当に広い範囲で社会的合意が形成されている。すなわち、みんながそこに同じものをみる。例えば、約束の時間に遅れてはいけない。遅れるのは「悪いこと」だ。「俺は遅刻するのがわりとスキなんだよね……」――これは単なる迷惑な輩であり、世の中では許容されない。

 氷山の頂点には極端に普遍的な価値観がある。ここまでいくと普通は法律で明示的に規定されている。人を殺してはいけない。殺人は悪である。「もう殺人がスキでスキで、今週も2人ばかり殺ったんだけど……」――これはただの犯罪者であり、ただちに警察に通報したほうがよい。

 しかし、こうした良し悪しはあくまでも氷山の一角に過ぎない。饂飩か蕎麦か、蕎麦だとすれば温かいのか冷たいのか、温かいのだとすればたぬきかきつねか、それとも天ぷら蕎麦か、薬味はネギか七味かそれとも両方か。掘り下げていけばきりがないが、水面下には無数の好き嫌いが広がっている。しかも、当然のことながら好き嫌いは人によって異なる。

「昼はお蕎麦にしようかな……。えー、温かい天ぷら蕎麦ひとつお願いします」という人に、「このデジタルでグローバルな時代に何を言ってるんだ! 天ぷら蕎麦なんて間違っている! たぬき饂飩にしなさい!」という人はいない(いたとしたら相当にヘンな人)。その人に局所的な好き嫌いだからだ。

人は「良し悪し族」と「好き嫌い族」に分けられる

 世の人々は「良し悪し族」と「好き嫌い族」に分かれる。良し悪し族は氷山の海の上に出ている部分に目を向ける。海上に見える部分がなるべく大きいほうがいいと考えている。だから良し悪し族は海中に隠れた部分を引き上げて、水面の上の見える部分をできるだけ大きくしようとする。

 一方の好き嫌い族にとって、良し悪しは文字通り「氷山の一角」に過ぎない。ジッサイのところ水面下にはるか大きな好き嫌いが広がっている。それは普段はあからさまには見えないものだし、見る必要もない。多くの人々の間でコンセンサスの取れている良し悪しなんてものは全体のごく一部だと割り切っている。

 良し悪し族は世の中を縦に見る。見るもの聞くものを、良し悪しの縦軸に当てはめて価値判断をする。悪いことを指弾し、世の中からなくそうとする。良いことを増やし、伸ばそうとする。

 好き嫌い族は世の中を横に見る。ミクロな視点といってもよい。それぞれに好き嫌いが異なる個人の集積として世の中をとらえる。人それぞれだからノリやソリが合わないこともしばしばだが、「ま、それぞれの好き嫌いだからイイんじゃないの……」とやり過ごす。

 良し悪し族と好き嫌い族、これはもちろん好き嫌いの問題で、どちらが良いという話ではない。ただし、僕ははっきりと好き嫌い族に属している。族長になりたいぐらいだ。

「良し悪し族」のデカいツラ

 これまで好き嫌い族として生きてきて、最近気になることがある。このところ良し悪し族がやけに幅をきかせてきたというか、どうにもデカいツラをしすぎなように思う。僕にしてみれば好き嫌いの問題でしかないような世事のもろもろについて、「ここがおかしい」とか「これからはこうならなくてはいけない」とか、「だから日本はダメなんだ」とか、逆に「日本のいいところを大切にしなくてはならない」(良し悪し族は必然的に視点がマクロになるので、「日本」とかやたらに議論が大上段になりがち)とか良し悪し基準を持ち出して声高に主張する。

 インターネットの時代になって、情報が低コストで行き渡り、行動の自由度が増した。好き嫌い族にとってより住みやすい世の中になるのかな、と期待したものの、現実はそうでもない。ちょっとした発言や行為がすぐに良し悪し基準で俎上に上り、叩いたり叩かれたり炎上したりする。「文春砲」もますます健在である。

 ソーシャル・ネットワークの中で、人びとは他人の目に映る良し悪しを以前よりも気にするようになった。自分の思考や行動が「正しい」かについてやたらに敏感である。

 普遍的な価値観が共有されていなければ世の中は成り立たない。良し悪しの基準については、社会全体で時間をかけて堅牢な合意形成をしなければならない。しかし、それはあくまでも氷山の一角である。市場経済や自由主義といった、「普遍的な価値観」にしても、水面下でそれを支えているのは独立した人格を持つ多数の人々の好き嫌いである。近代以降の思想や制度は、そもそも自分の意思で考え、選択し、行動する個人の好き嫌いを前提としているものが多い。

ビジネスで跋扈する「良し悪し族」

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 僕は競争戦略という分野で仕事をしている。ありていに言って「競争の中である商売が儲かったり儲からなかったりする論理は何か」を考えるという仕事である。商売である以上、最終的には「業績」という良し悪し基準に行き着く。しかし、そこに至るまでの戦略には好き嫌いの色彩が強い。

 戦略とは、一言で言えば、競合他社との違いをつくるということだ。その時点でみんなが「良い」と思っていることをやるだけでは儲かる戦略にはならない。当事者が心底好きで面白いと思っていることを突き詰めた結果として優れたユニークな戦略が生まれる。いろいろな商売を傍から眺めてきた僕の確信だ。

 自由意志、これこそが商売の大原則のはずだ。にもかかわらず、良し悪し族の優勢というか跳梁跋扈は、ビジネスの世界でとりわけ目につく。本来は自由意志、好き嫌いの次元にあるはずの意思決定や行動が、すぐに良し悪し基準で切り捨てられたり、逆に「ベスト・プラクティス」の名の下にいかにも正しいことのように煽られたりする。

 商売に限らず、世の中の9割は好き嫌いで成り立っているのが本当のところだと僕は思う。巨人か阪神か、ビートルズかストーンズか、中森明菜か小泉今日子か(話が古いが、この2人が僕にとっての最新アイドル)、天丼かかつ丼か(もちろん親子丼でもかまわない)、仕事にしても生活にしても、大半のことがそれとまったく同じ意味で好き嫌いの問題である。どちらでもいい。優劣や上下はない。好きな方にすればよい。

「好き嫌い」に争いはない

 そもそも天丼もかつ丼も親子丼もそれなりに美味しい。それでも好き嫌いはある。だから好きなものを選ぶ。考えてみれば贅沢な話である。1000年前であれば、好き嫌いどころではなかった。普通の人々は、生存のために「良い」ことをし、「悪い」ことは排除しなければならなかった。もっと前、ローマ帝国の奴隷だったらどうだっただろうか。他者(ご主人さま)の決めた良し悪しに従属して生きていかなければならなかった。

 いろいろと不平不満もあろうが、それなりに自由で豊かな時代に生きているのである。自分の好き嫌いに忠実に生きなければ、平安時代の平民やローマ帝国の奴隷の皆さんに申し訳が立たない。

 人から好き嫌いをなくすことはできない。多様な好き嫌いを良し悪しに一本化するのは不可能だ。氷山を無理やり全部海中から引き上げるようなもので、とんでもないコストがかかる。無理に引き上げると、結局のところ不安定でひっくり返ってしまう。全体主義の成り行きだ。

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 好き嫌い族は総じて平和主義者である。歴史を振り返れば、戦争を起こすのは決まって良し悪し族だった。好き嫌いには定義からして争いがない。大げさに聞こえるかもしれないが、好き嫌いは世界平和への王道である。

 もっともらしい理屈をつけても、世の中のほとんどは詰まるところ好き嫌い。しょせん「蕎麦か饂飩か」という話なのである。好き嫌いはひとそれぞれ。他人と自分が違うのは当たり前だし、人のことを気にする必要はない。ただし、他者の好き嫌いを尊重する。尊重しないまでも、筋違いの批判や余計な介入や無駄な説得をせず、気持ちよく放置する。そういう社会が成熟した良い社会であると僕は思う――と、好き嫌いのはずがいつの間にか良し悪しの話になってしまったが、そういうことである。

 好き嫌いの中身は違っても、僕と同じ好き嫌い族の読者に楽しんでもらえる連載にしたい。良し悪し族の皆さんも、あくまでも個人的な好き嫌いの話ということで、ひとつ長い目でおつきあいいただきたい。