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特集74年、あの戦争を語り継ぐ

『日本のいちばん長い日』著者の半藤一利は、あの「8月15日」をどう過ごしたのか?

『日本のいちばん長い日』著者の半藤一利は、あの「8月15日」をどう過ごしたのか?

戦後74年――いま語られる“半藤少年”の「戦争体験」 #3

2019/08/15
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玉音放送の直前まで戦況放送をしていた

 今でも覚えていますが、ラジオでは「11時55分現在、関東地方に敵影なし」なんて戦況放送をしていたのです。だから、戦争に負けるなんて全く思っていませんでしたね。まだ頑張れと言われるのだろうか――と思っていると、まもなくピッピッピ、カーンと時報が鳴った。すると、いきなり「ただいまより重大なる……」と放送が始まったわけです。「全国聴取者の皆様、ご起立を願います。重大発表であります」と。

 そうして始まった玉音放送について、人によっては内容がよく分からず、負けたとは思わなかったと言う人も多いですね。でも、私は聞いて分かりましたよ。「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」という箇所がよく聞こえましたし、「万世のために太平を開かんと欲す」という言葉や、ポツダム宣言を受諾することにしたということも分かりました。だから、戦争に負けたのだということをすぐに理解したんです。

「人生でこれから面白いことは何もねえ」

 これは後に私がよく書いたり、喋ったりしてきたエピソードですが、長岡の工場で一緒に働いている連中は悪い奴ばかりでね。

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「戦争に負けて、いよいよ俺たちはみんな奴隷になるんだ。人生でこれから面白いことは何もねえから、今のうちに面白いことをやっとこうじゃねえか」と、なった。

 そうは言っても何をやるんだという話をして、私たちはまず「煙草を吸おう」と思いました。それで、4、5人の仲間ともう使わなくなった防空壕にもぐりこみました。すると、そのうちの一人が言いました。

「おい、おまえ。コンサイス、持ってたよな」

9月1日から学校が始まった

 その頃の私は勉強家で通っていて、ポケットに英語の辞書を入れていたのです。私は辞書をポケットから出すと、一枚、一枚と破いて人数分の煙草を作った。それをプカー、プカーと吸ったのが、私の生まれて初めての煙草でした。

 その日、工場はそのまま閉鎖となり、私は2時半の汽車で家に帰りました。翌日の16日のことは覚えていません。ただ、9月1日の土曜日からは学校が始まり、大掃除をしてすぐに帰ったのは覚えています。そして、週明けからは授業が始まりました。