平成27年4月、天皇皇后両陛下(現・上皇上皇后両陛下。以下、同)はパラオ共和国をご訪問。ペリリュー島に建つ「西太平洋戦没者の碑」に献花された。それからはや4年もの歳月が流れたが、両陛下が深々と拝礼された場面を記憶にとどめている方も多いであろう。
戦力の差は明らかであったが……
私はその時、両陛下の後方にいた。同行取材を許されていた私は、お二人の背中を見つめながら、ペリリュー戦について改めて思いを巡らせていた。このほど、当時の取材成果を『ペリリュー玉砕 南洋のサムライ・中川州男の戦い』(文春新書)としてまとめた。
ペリリュー戦とは、太平洋戦争において特筆すべき戦闘だった。約1万人の日本軍守備隊に対し、米軍が投入した総兵力は延べ約4万2000人。戦力の差は明らかであったが、日本軍は驚異的な戦いぶりを見せた。
日本軍はあらかじめ、島じゅうに地下壕を張り巡らせ、島全体を要塞化。これら地下壕を巧みに利用しながら、上陸してくる米軍の大部隊を迎え撃った。結果、「米軍最強」と謳われていた第1海兵師団は、「史上最大の損害率」を記録したとされる。
そんな驚異的な戦闘を繰り広げた守備隊に対し、昭和天皇からは11回もの「御嘉尚」(御嘉賞)が贈られた。御嘉尚とは「天皇からのお褒めのお言葉」のことである。御嘉尚が11回も贈られるというのは、先の大戦を通じて極めて異例のことであった。
「現場からの叩き上げ」だった指揮官
そんなペリリューの戦いを現地で指揮したのが、中川州男大佐である。
中川は明治31年1月23日、熊本県の玉名郡で生まれた。中川家は代々、熊本藩の藩士という家系だった。
陸軍士官学校を卒業した中川であったが、一時は学校の配属将校に回されるなど、言わば「閑職」へと追いやられた。しかし、その後に勃発した日中戦争時に華北に派遣された中川は、大隊長として的確な手腕を発揮。多くの戦功を残し、上官たちの目にとまることになった。こうして中川は、陸軍大学校の専科へと推薦され、入学を果たすことができたのである。つまり中川という人物は、エリート街道を順調に歩んだわけではない。彼はまさに「現場からの叩き上げ」であり「挫折を知る人」であった。