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ペリリュー戦の実像とは?

 その後、第14師団歩兵第二連隊の連隊長となった中川は、満洲の北部に派遣された。しかし、戦況の悪化に伴い、同連隊は激戦の続く太平洋戦線へと転進することが決定。こうして南洋に向かうことになった同連隊の赴任地が、パラオ・ペリリュー島だったのである。

 ペリリュー島に着任した中川は、島内に地下壕を張り巡らせて戦う計画を推進。部下から話を聞いた上で細部にまで指示を出し、丁寧に準備を進めた。「叩き上げ」「現場主義者」である中川は、徹底した「準備の人」でもあった。

©JMPA

 中川は島の住民に対し、疎開命令を出した。住民への被害の拡大を予防するためである。日本軍のこの命令に関して、今も感謝の言葉を述べるパラオ国民は少なくない。

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 昭和19年9月15日、米軍の大部隊が同島への上陸作戦を開始。米軍は当初、「戦闘は2、3日で終わる」と考えていた。しかし、日本軍の抗戦は、米軍の想像を遥かに超えるものであった。

戦友に「早く殺してくれ」

 私はこれまでの取材を通じて、実際にペリリュー戦を戦った生き残りの方々からお話を伺うことができた。いずれの方々も90代、貴重な「最後の証言」である。歩兵第2連隊の軍曹だった永井敬司さんはこう語る。

「怪我を負った兵士が『ウーン』と唸りながら、戦友に『早く殺してくれ』と頼む。戦友は『わかった』ということで、軍刀で突き刺す。それはもうひどい状況でした。腕や足を吹っ飛ばされている兵士もいましたし、頭部がなくなっている死体もありました。『天皇陛下万歳』という絶叫も聞きましたね」

©JMPA

 水や食料も極限まで不足する中、戦闘は74日間に及んだ。中川は最期、集団司令部に向けて、

「サクラ、サクラ、サクラ」

 と打電。玉砕を告げる符号であった。

 その後、中川は自決。享年46である。