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「主筆室でポックリ死んで、秘書に発見される」 渡邉恒雄が明かした“理想の死に方”

読売新聞主筆・渡邉恒雄『私の大往生』インタビュー

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まさに死ぬという時に聞きたい曲

――もう1つ望みがあるんだ、と渡邉氏は席を立ち、ある箱を持ってきてくれた。その中には「渡邉恒雄葬送曲目集」と書かれた5つのテープが入っていた。

渡邉 音楽を聞きながら死にたいんだ。まさに死ぬ時に聞きたい曲が2通りある。

 1つはチャイコフスキーの交響曲「悲愴」。

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 19歳の時、軍隊に徴兵されて、明日から入営という前の晩に、旧制高校の後輩が10人くらい僕の家に来た。お袋がかき集めてきた「武運長久」というお守りを11枚、みんなの前で火鉢にくべたんだ。こんなバカなものと、お袋には内緒でね。

 それを焼いた後、俺の葬送行進曲を聞け、と聞かせたのがこの「悲愴」だった。当時のレコードはSP盤で、手巻きの蓄音機。しかも金属の針がないから、竹を削って尖らせた竹針で聴いた。死に向かう自分にふさわしいと思えるんだな。

 もう1つは、(今回の)インタビューの前に考えた。「悲愴」というのは本当に陰々滅々とした、悲劇的な曲。だから、モーツァルトの「ディヴェルティメント第十七番」。これは明るく楽しいから聞きながら死ねば、気が楽だろう。死ぬ直前にどちらをかけるか決めたいね(笑)。

 音楽葬テープには、葬式で流してほしい曲が入っている。グリーグのペール・ギュント組曲の「オーゼの死」とか、シベリウスの「悲しいワルツ」とか。そしたら後になって当時の専務が、「渡邉さん、一周忌用作ってきました」とテープ2つ持ってきたんだ(笑)。これがまた、僕のあまり好きじゃないバッハとか、古い曲が多い。「余計なもの作ってきたな」と思ったんだが、しょうがないから一緒にしてあるよ。

――渡邉氏は東大入学後の1945年に徴兵された。この時、初めて死を意識したという。

渡邉 僕は8歳の時に親父を亡くした。ある日、家に帰ったら親父が入院していて、1週間後に生まれて初めてタクシーに乗って、病院に行った。「おお、恒雄来たか」とだけ、言ってくれたが、それで意識を失って死んでしまった。でも、当時はまだ死というものがよくわからなくてね。何かまだ、どこかに親父がいるような気がしていた。

 だから初めて死を感じたのは戦争。あれは全く、死を感じたね。誰だってそうだ、負けるに決まってるんだから。

©iStock.com

捕虜収容所で読む予定だった3冊の本

 中学時代から、友達の父親に高級官僚とか、政治家とか、財界人がいて、旧制高校でも仲間の父親に大臣クラスもいた。だから本当の情報が入ってくる。もうミッドウェー以降、どんどん負けている。そういう敗北が決まっている段階で徴兵されたわけだ。

 99%、死ぬと思った。残る1%は脱走だ。生き残るには脱走しかないと思った。あの頃、逃亡兵は捕虜収容所に入れられると勝手に空想していて、戦犯ではないから、2、3年で釈放されると踏んでいた。

 そのために僕は軍隊にいる時、3冊の本を隠し持っていた。まず、カントの『実践理性批判』とブレイクの詩集。2、3年繰り返し読んでも飽きない本だ。それとポケット英和辞典。逃亡に成功して降伏した時に、英会話が必要になると思ったんだな。見つかっていたら、確実に重営倉(懲罰)だね。

 僕は将校になるのが嫌だったから、幹部候補生試験に願書を出さず、陸軍二等兵だった。当時は少尉が真っ先に前線に立たされ、先に死んじゃう。だから「俺は絶対二等兵がいい」と思った。

 それで軍隊で特務曹長に「お前は東京大学の学生である、幹部候補生の受験資格がある。受けろ」とこう言われた。僕は「いや、軍隊の根幹は兵であります。私は将校にはなりたくありません」と言ったんだ。これは感心された。特務曹長というのは、要するに下級兵士からの生え抜きだから、元々将校じゃない。兵が良い、大事って言われたら悪い気はしないんだ。でも「しかしな、お前は資格があるんだから、受けろ」となった。僕も「いや、軍の根幹は……」と、このやり取りを2、3回繰り返したら、「バカヤロー!」と怒鳴られたね(笑)。

 僕は十サンチ榴弾砲部隊だったんだが、8月15日の段階で鉄のタマが全然なくて、木のタマで練習した。実弾すらなかったんだから(笑)、本土決戦なんて言っていた奴は許せない。本当にバカげた戦争だった。