文春オンライン

連載昭和の35大事件

硫酸ぶっかけに殺人まで 最恐の大規模ストライキ「野田醤油争議」を知っていますか?

金はいらないから死ぬまで闘う

2019/09/08
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計546人が参加した小学生による「同盟休校」

 同年10月の総同盟年次大会では「亀甲萬醤油の購入ボイコット」を決議。年が明けた1928年1月16日には、争議団の小学生の子どもたちの同盟休校が始まった。それは町長以下、学務委員らが会社側に立って争議団を攻撃していたことも理由だった。

 同盟休校は1923年の争議でも行われたが、今回は計546人が参加。軍歌「勇敢なる水兵」のメロディーで「暁の空光して 希望は高く輝けり いざ進まんわれらこそ 雄々しき労働少年(少女)軍」と歌ったり、争議中の伝令、炊事、洗濯などの作業を手伝った。1月17日付朝日朝刊には「児童盟休し戦勝祈願」の記事が。「労働小学校開設の意気込みであったが、争議が極めて深刻となっている際、教育どころではないとの幹部の意見一致し」「児童は十七日より連日打ち連れて午前中各神社に参拝、戦勝祈願を行うと」。子どもたちが神頼みを始めたということだ。

小学生の同盟休校を報じた東京朝日新聞

 1923年の争議では、「松岡駒吉はストライキ開始にあたり『労働運動は決していたずらに騒ぐことではない。ストライキ中は絶対に飲酒を慎み、激越な演説を避け、恭敬の態度を失わないように』と訓示し、組合員もこれをよく守ったので、町民の支持を得た。料理屋や旅館の従業員も郵便局の職員も全て組合びいきであったという」(「千葉県の歴史」)。しかし、今回は会社側がしたたかだった。自分たちの主張をまとめて逐一町民らに知らせ、理解を求めた。こうした広報戦略には、協調会の助言が大きかったと思われる。

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小学生による同盟休校の様子(「野田血戦記」より)

 争議決着後の1928年5月の野田警察署長の談話メモには「一般町民の同情は、最初は五分五分なりしが、漸次会社に厚くなれり」とある(「野田市史資料編」)。同盟休校の小学生について小学校訓導も「児童の間には階級的意識なし。10分の7までは組合が無理だと思っていたようだ」「今度は町ものが動かなかったため、すなわち争議団に味方せず、反会社的色彩なかりしため」と報告している(同)。労資双方が強硬姿勢を変えない中で、争議に対する世間一般の視線を決定的にしたのが、争議団幹部による直訴事件だった。