暴力団の侵入、学童盟休等、凄惨苛烈を極めた昭和2年9月から翌年4月まで行われた日本労働組合史最長のストを参加した筆者が描く。

初出:文藝春秋臨時増刊『昭和の35大事件』(1955年刊)、原題「野田スト血戦記」(解説を読む)

 昭和2年の9月から翌年4月まで、一世を震撼させた大労働争議が発生した。千葉県野田町(現在市)は東京から約八里、江戸川と利根川の合するところに近く、江戸川の流れに沿った田舎町である。人口1万8000を数え、古くから醬油の都として知られていた。

 野田町が醬油で名を知られるようになったのは徳川時代、200年も昔である。然し近代的会社組織として発足したのは大正7年であり、野田醬油は茂木六家と高梨家の合同した一族会社である。

野田醤油株式会社本社(「野田血戦記」より)

醬油屋者といえば恐れて近附かず、娘などは遠くから道を避けた

 野田が醬油で栄えたのは、江戸川の利用、小麦大豆の集散等理由はいろいろ挙げられているが、要するに商売熱心、代々経営の才に恵まれて発達したもので、醬油の分析、機械化等経営の上では思い切った改革をやっており偶然に大会社になったのではない。只、労働者の待遇は驚く程時代おくれであり、「倉人」と称して口入業を通じて1年契約の制度をとっていた。労働者は工場の中に「ひろしき」と称して雑居して働いていた。雑居生活は環境が良かろう筈がない。低賃金と前借で妻も持たず、賭博と酒色に過ごし、当時醬油屋者といえば恐れて近附かず、娘などは遠くから道を避けた程である。

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野田醤油の醸造施設と作業(「千葉県の歴史」より)

 こういう自暴自棄の生活に、労働者の権利、労働組合、団結などが説かれたのである。労働組合は救世主の如く迎えられ、忽ち強力な結成を見るに至った。特に極端な最低生活は起上るに何ものをも恐れない強い力となった。

 野田醬油は当時資本金700万(現在8億)従業員約1500人、工場数16、石高50万石と称して事実上日本一の醬油会社であった。この田舎町に大会社が存在しているのだからその勢威は推して知ることが出来よう。

茂木社長(「野田血戦記」より)

 会社は醬油工場の外、銀行、運輸、鉄道を独占し、旅館、映画館等も合せ持っており、重役は王侯的存在である。もとより町長、町会議員はその傘下にあり、当時重役4名が町議の席をもっていたが、他の町議とは区別され、その坐る椅子は白いカバーを附して特別席を与えられていたのである。県知事が就任すると真先きに挨拶に来るのが野田であり、次が成田山新勝寺だといわれた。その富豪ぶりは東京から青森迄の間、右に出るものがないと迄いわれていた程である。