争議最大の問題は「工場の争奪」
この問題が大争議の切っかけとなるのであるが、会社は充分用意を整えて臨んでいた。従来負け続けの会社がこの辺で一戦ものにしようとしていたのである。この時も総同盟の本部は抑えにかかったが、意気上っていた組合員は聞かず、交渉は遂に決裂状態となり、組合は9月15日の総会で遂に全面的ストライキの決行となった。
この時組合の総勢は1430名、16の工場が参加していた。大正14年落成した第十七工場は工員数320名、他の16工場の約3分の1を生産する力を持つ近代的新鋭工場であるが、会社はこの工場には組合員を1名も入れなかった、一人一人組合に加入しないことを誓約させて雇っていたのである。従って今、争議に突入して、最大の問題はこの工場の争奪にあった。十七工場をこうしたのは会社にとっては外堀を埋めたものであり、組合にとっては致命的欠陥であった。当時ストを決行するに当って組合の幹部がこの事実をどの程度評価していたか問題である。
勢い戦いは陰惨なものとなり暴力は至るところで演じられた
果せる哉、スト突入となるや第十七工場の争奪戦となった。組合は16日朝より十七工場工員の出勤阻止を図ったが、説得がまずく、中には暴力を奮って追い返したりしたので失敗した。この間会社は店員を中心として工作し、工場内に籠城戦術をとり、第十七工場工員を密かに招じて、9月27日には早くも工場の再開に成功したのである。スト突入以来僅かに12日、天王山とも云うべきこの工場の生産がはじまってはストの効果は薄い。勝敗の大勢はここに決し、日本最大の長争議はかくて、戦略的に絶対不利の中に続けられる結果となった。
先ず成功した会社は暴力団多数を雇い入れて工場の内部を固め、争議団員の切り崩しと工場再開に全力を注いだ。招致隊を編成して一軒一軒訪問し脱退を奨めた。応ずる者があると暗夜自動車に乗せて工場内に運び込んだ。かくて団員約400名の脱会があり、次ぎ次ぎに工場の再開が行われた。11月末には全17工場が操業し、黒煙を上げるに至っては最早争議は如何とも成し難くなった。
従って組合は勢い防衛に転じ、団員の結束をはかって脱落を防ぎ、有力な調停を入れて解決をはかろうとした。然し今や勝利歴然たる会社は、只無条件降伏を求めて調停には応じない。勢い戦いは陰惨なものとなり暴力は至るところで演じられた。